インド染織研究会の歩み

インド染織研究会 沿革 歩み ワークショップ

手作り布文化を次世代へ伝える活動

多様で豊かなサリー文化を守る

その夏友人2名が著した膨大な情報のつまった『SARIS OF INDIA(全6巻)』の初巻マデイヤプラデシュが出版された。(本誌1991年5月号参照)わが国では、とうに進行していた着物離れ・・・イコール伝統技術の維持・継承が難しくなっていた時である。この書物が出るべくしてインドでもこの頃を境に都市部ではサリー離れが進んでゆく。「技術を受け継ぐ織人達に仕事を」とインド染織研究会を立ち上げた。1991年11月の事である。発会記念として、『SARIS OF INDIA展』を麻布美術工芸館に於いて6日間開催し、インドから資料用に集められた古いもの、その技術で再現されたサリーなどを借用し、各州別に展示した。
当時サリーと言えば、金糸・銀糸の織物として一部のファンはいたが、こんなにバラエテイが有り、文化そのものだという認識はなかった。染織好きが全国から集まり、著者のひとりリタ・カプール女史をメイン講師とし、当時会長であった高田倭男氏の『インド染織の日本への影響』など連日の講演会も好評であった。設立されて間もない日本野蚕学会との合同の勉強会をスタートさせたのもこの時である。

積み重ねた日印の染織家交流

翌年は名古屋で第1回国際絞り会議が開かれ、インドから講師、職人が招かれた。それを受け東京で、実演・講演を含む『SIBORI OF INDIA展』を開いた。その折り、京都西陣の若手の勉強会にも参加し、彼等を伴い京都を旅したのも思い出深い。某有名デザイナの依頼によりラハリア(インド特有の巻き絞り)を試みていた工房では、最初<インドの職人?>と、うさん臭い目で見られ、あまり歓迎されたふうではなかった。しかし若い職人が道具らしい道具もなく器用に布を巻いて絞って行く様を見て、そこは職人同士態度は一変し、急にうちとけたムードになったのが印象的であった。
その後講演会を中心に活動を続けていたところ<日本とインドの染織文化交流シンポジウムをやりましょう>と日印協会より話しがあり、慣れていらっしゃるでしょうとコーヂネータ的役割りをおおせつかる。日程は1994年2/28~3/2、場所はアーメダバードのN.I.D.と決まり日本サイドは半年前から動き出したが、さてあちらはどうなっているのやら?訪印のたび何度か打ち合わせはしてきたが、今まで仕事としてやってきている物作りとは訳が違う。何かが1日ずれこんでも台無しになってしまう。コンピューターの発達した現在のインドを考えれば不思議でもないのだが。ドントワリー・ノープロブレムのインドで、限られた時間と予算の中で、経緯絣をあわせるより困難かもしれないと思った。心配をよそに、ピタとおさまった様子は本誌1994年6月号を読んでいただきたい。
このシンポジウムを通じ多くの方々と親しくなり、同年8月穂高で開催された第2回国際野蚕学会にも全国から駆け付けて下さり、当会を支えるメンバーの基盤ができた時期である。

バララム女史の日本染織研究

翌1995年春、国際交流基金の招聘によりパドミニ・バララム女史(インド藍の研究者)が来日、1年滞在した。日本の伝統染織を研究テーマに選び、なるべくたくさん見たいとの要望に、彼女曰く「長谷川さんは私をフットボールのようにあちこち飛ばす」と言い出したくらい各地の会員に紹介して送った。おかげで私達も貴重な紅花染めなどツアーで御一緒出来たものも有りラッキーであった。日本人以上に日本中を駆け回った彼女にどこかで接する機会がおありの読者の方も少なからずいらっしゃるのではないだろか。トラブルの連絡も多々いただいた。
つい先程-2000年11月沖縄南風原にて開かれた『アジア絣ロードまつり』にも来日しており、帰途、前回はたせなかった訪韓をなしとげ、又も嵐を起こして帰った由、韓国の李さんより電話があったばかりだ。かつての日本人もそうであったように、儒教で育ったつつましやかな方には経験のない自己主張の強さだったのであろう。どう対処して良いのかくたくたになられたそうだ。これもインドの人達のほうがよほど国際的なのでとやわらかく説明し、「現地にいらっしゃる折には大変役に経つので、貯金をしたとお思い下さい。」と申し上げ電話を切った。

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