Archive for the ‘絹の話’ Category
絹の来た道 これからの道(その3)
絹の軍事利用
古代から絹(生糸)は美しい織物として権力者によ
って多用されて来ました。
ところが、長繊維である生糸は繭の20%~30%しか採れ
ず、残りは屑糸となり、紬として庶民にも利用されて
来ました。紬は蝉の羽根の様に薄く艶やかで、霧の様
に柔らかくとはなりませんが、軽くて丈夫で温かく、
夏でも蒸れず、寒冷にも凍結しにくく、緩衝性にも吸
臭性にも優れていて、気持ちを和らげます。
その様な素材を権力者が見過ごす訳が有りません。
緜衣(めんい) 緜甲冑(めんかっちゅう)
中国の殷、周の時代になると大陸の中で派遣争いが大
規模になり、青銅製の兵器等の金属兵器から兵士を守る
為、大量に生産され始めた繭から得られる絮(じょ)(真綿)や
屑繭から兵士の外装や兜を手軽に大量に生産し、軍事に
利用され始めたのです。鉄兵器の時代になっても清の時
代に至るまで利用されて来ました。
漢時代の墳墓の兵馬俑の服装をお思い出して頂ければ解
りやすいですが、唐の時代には紙絮(絹の屑を紙に漉い
た物)、明の時代でも綿甲(繭を濡らして木鎚(きづち)で紙のよう
に薄くした物をタイル貼りの様にベースの生地に鋲で打
った物)が盛んに使われていました。
清の時代になると、緜衣に菱形の鉄甲板を鋲でとめた武
官鎧が作られていたという記録が有ります。
ローマ帝国の兵士もシルクロードからもたらされた緜衣(めんい)
を着て戦ったところ、敵の矢を防いだという話が残され
ています。
蒙古軍「 絹と羊毛のフエルトで世界制覇」
蒙古では羊毛は沢山とれますが絹は生産されません。
絹の機能性を知ったチンギスハーンは万里の長城を超えて
中国に侵入すると「先ず銀を奪うべし、次に絹を奪うべし」
と命じ、奪った絹を羊毛と混ぜたフエルトを作らせます。
(羊毛と真綿を大きな恵方巻き(のり巻き寿司)のように
簀巻(すまき)きして水をかけて馬で平原を長時間曳き回して作る)
これは強力な防矢性を発揮するばかりでなく、軽く軽快で
戦闘性が向上し、野営する兵士には防寒に役立つばかりか
絹の抗菌性による皮膚病等の予防になり、馬の疲労も和ら
げ、行動距離が増し、兵士の士気はグンと向上したのです。
特に黄河より南は羊毛フエルトの軍装では夏期の駐屯は暑
くて不可能でしたが、絹羊フエルトの軍装は温度が上がり
過ぎず南下を可能にして、タイ国境にまで進出し、東ヨー
ロッパにまで制覇する事が出来たのです。
鎌倉時代日本に襲来した時の蒙古兵は絹羊フエルトワンピ
ースとブーツ、先頭兵士は金属兜ですが、後方兵士は緜甲
冑でした。この時の戦闘の様子を記した当時の記録に「蒙
古兵は射れども射れず、斬れども斬れず」とあります。
蒙古の元は絹を利用してアジア大陸を制覇したと考えても
よいでしょう。
日本の絹生産 「刀と戦争」
日本では7世紀白村江に出陣する兵士に緜甲冑を付けさ
せた記録が有ります。
鎌倉時代、元弘の役の苦戦に懲りて、絹が斬れる刀を作
らなければ蒙古兵には立ち向かえないと考えた時の政権は
絹が切れる日本刀を作ることに心血を注ぎ、軟鉄に玉鋼を
巻き鍛えて、反りの研究を重ね、五郎正宗をして、日本刀
を完成させるのです。
戦国の武将は、刀傷を少しでも防ぐ為と、鎧の中の熱や
汗、臭いを和らげる為に、平面繭(蚕に繭を作らせず、平
な広い所に蚕を置いて和紙の様な絹を作らせる)を着用した
と云われています。
日本が絹生産世界一の時代
昭和10年台になると、絹は輸出総額の45%前後になり、
このお金で軍備を拡充し、第2次世界大戦をアメリカ、イ
ギリス等連合国と戦争をすることになったのです。
その時、日本の航空兵は暖房のない機内で身体を冷やさ
ないため絹のマフラーを首にしっかり巻き付けて搭乗し
ていました。落下傘もさらりと開かせるため絹で作られ
ました。北支派遣軍の冬の軍装に軽くて暖かく、緩衝性
に優れたエリ蚕が使われました。
これからの絹の軍事利用
昨今世界中で軍事用に研究されている絹は「蜘蛛の糸」
です。蜘蛛の糸は蚕の絹より優れた機能性が多く、特に
張力は蚕の糸よりはるかに勝っています。
現在は軍事用防弾チョッキ製造が期待されていて、集団
で飼育出来ない蜘蛛に代わって、蜘蛛の糸の遺伝子に組
み替えられた家蚕に蜘蛛の糸を量産させようとしていま
す。また、大腸菌に蜘蛛の糸と同じ物を作らせる事に成
功したようです。
絹は今後もっと多方面に利用されて来ると思われます。
絹の来た道 これからの道(その2)
絹の製法秘密厳守
中国で絹が作られてより、歴代の古代王朝はその製法
が流布する事を禁じてきたようです。
先ず蚕種の流失を厳しく取締り、次いで製糸技術も制限
したようです。
特に薄衣をしなやかに纏う事は権力者の象徴であり、富
裕の証で有りました。
絹布は権力者から臣下に褒美、他国、他民族との外交品、
上司から臣下に、臣下から上司に祝儀として盛んに使わ
れていました。
絹を差配する事は権力者の大きな財源でもありました。
今日でも使われている「羽振りが良い」とは、薄衣を靡
かせて歩く姿を言ったものです。
絹の製法の伝播
中国の漢の時代になると、シルクロードが整備され、
ローマや西方の国々との交易が盛んになって、絹の需要
は高まるばかりでしたので、中央アジアからローマに至
る国々では蚕種をなんとか入手し、自国で絹を作ろうと、
時の中国の王朝に対してあれこれ画策するのですが、な
かなか実現しませんでした。あるとき中央アジアの国の
王子が中国王朝の姫と婚姻する事になり、中国からはる
ばる輿入れするとき髪飾りの中に蚕種を入れて来るよう
に頼んだ、と云う話があるほどでした。
現在のアフガニスタン周辺の国々はシルクロードの中継
貿易で栄え、そこを通ってシルクが運ばれて来るので、
ローマの人々はシルクが中国ではなく中央アジアの何処
かで作られていると信じていました。またローマの人々
はシルクが何から作られているか知りませんでした。
やっとヨーロッパの入り口のトルコ(現在)に伝わる
のが6世紀というのですから、絹が作られてより三千数
百年、シルクローロが拓けてから千年弱シルクの製法の
秘密を守ってきた歴代中国王朝の手腕に驚くばかりです。
東方の日本にはどうでしたでしょうか。
日本には日本在来種の中国とは違った「クワコ」がいま
したので、これを利用して絹の紬を作っていたのかも知
れませんが、養蚕技術は稲作と一緒に伝わったというの
が定説です。稲作、即ち縄文後期なので、今から三千数
百年前には中国から家畜化された蚕種が伝えられたと思
われます。そうすると中国の歴代王朝は極東の日本を含
めて自国の範疇と考えていたのでしょうか。
後世、卑弥呼が魏の国に朝貢した時、献上した絹布は素
朴なものであった様で、紬ではなかったでしょうか。
魏の王からは当時の日本では見た事もない目映いばかり
の錦織三反、平織り絹布百反を賜ったと魏志倭人伝に記
されています。その当時まで日本には錦織は勿論、羽振
りをきかす様な絹織物を作る技術は伝わっていなかった
と考えられますが、それを必要とする権力が存在してい
なかったと言った方がよいかも知れません。
養蚕技術
生糸で絹布を得るには、繭の糸口を見つけて、3粒〜
10粒を合わせて揚げ、精練、撚糸して織物を作るのです
が、紬糸を作る作業に比べて、大変精密な技術が要りま
す。中国の漢の時代以前には既に蝉の羽のように薄く、
霧のように柔らかい絹織物が出来ていたのですが、4世
紀の倭の国にはそこまでの技術が無かったと思われます。
日本が絹織物の技術を本格的に導入し始めたのは大和
朝廷が確立する頃からで、その当時中国や朝鮮から大勢
の職人集団が幾度も渡来して絹産業を興隆させて行くの
です。その職人集団は大和周辺で技術を伝え、それが一
段落すると、彼らに官位など付与して日本各地に移封し、
その技術を各地に広めたのです。
三河の国にも彼らの移封があり、上質な繭を産する国と
して名声を高めてゆくのです。
絹の着用
三国志や韓国、日本の時代劇映画を見ると、支配階級
の人々はいずれも艶のあるしなやかな衣装を着ています。
楊貴妃にしても高松塚古墳の壁画に描かれている女性達
はみな薄衣を纏っています。
日本では各地で繭の生産が増し、絹加工技術移が一段落
した大化の改新の時、貴族等官位ある人々の公式時には
色で官位の区別をした絹の着用を義務づけました。
また当時宮中の祝事等のとき、祝儀の品として絹織物が
盛んに諸臣に配られたといわれています。
現在のテレビ等で見る韓国の時代劇は位階による着用色
がはっきり区別されていて参考になります。
但し、主に生糸をとった残りなどで作られる紬は、生糸
に比べて艶がなく、しなやかさにも欠けますので庶民に
も着用が許されていしました。
この事は江戸時代まで続きますので、絹は庶民には身近
で遠い存在になって行くのです。
絹の来た道 これからの道 (その1)
絹の誕生
昆虫の家畜化は蚕以外に今日まで他に例を見ません。
人類の歴史の中で、犬は2万年、牛馬は1万5千年、猫
は8千年前に家畜化されたと言われています。
8千年前といえば、氷河期が過ぎ、大地に豊かな森がで
き、針葉樹に代わり広葉樹林が広がった時期で、その腐
葉土が育む植物プランクトンが川から海に注ぎ、豊穣な
海が出来て来たのです。
蚕は少なくとも5千年以前には桑の葉を食べる小さな
クワコの家畜化に成功して、中国で養蚕が行なわれるよ
うになっていました。しかし他にも野外にはワコより大
型の繭を作る昆虫は多種多様あり、どうして小さなクワ
コ(2粒の大豆)を選んだのでしょうか。そもそもどの
様なきっかけで絹を発見したのでしょうか。
昆虫食
それは人々が狩猟生活が中心の時代、今日でも我々は
蜂の子やイナゴを食べているように、当時の人々にとっ
て昆虫食は簡単に入手出来る大切な蛋白源でした。
特に糸を吐く直前の幼虫の体がシルク蛋白でいっぱいに
なっている虫が美味しいですが、繭になってしまって、
木の葉に付いているものの中身を食べようとしても、繭
は強靭で石器などでは切り開いて中の蛹を取り出す事は
できません。やむなく繭ごと口に入れ、蛹の汁を食した
と思われます。その時、口から糸が出て来る事にヒント
を得て、糸づくりが始まったと思われます。
この事の証拠の一つに愛知県豊川市に蚕を食べた犬が
止めどもなく絹糸を吐いたと云う犬を祀る「犬神神社」
がある事でも解ります。また昭和のはじめ頃までは、養
蚕産地では生繭(乾繭にする前)を子供のおやつにして
いた所もあります。その子達は繭をしゃぶり蛹を食べ、
口から出る糸を親に渡していたようです。
それでも虫が不味ければ人は食べません、各種昆虫の中
でもまずまずの食味感であったと思われます。
一昨年、ラオスの山岳地域の昆虫食などの食味人気度調
査では、No.1は蜘蛛、No.2は蝉、No.3が蛹でした。
繭の色
野性の繭はそれぞれ捕食されないように回りの環境の
色に似た特有の色(多くは濃茶、薄茶、緑、黄、グレー
等)をもっています。またその色は紫外線等から蛹を守
る為の色でもあります。
ところが、クワコは他の野蚕繭にはない薄グレー、生成
り等が多く、極めて白に近い色の繭もあります。
狩猟時代白は貴重な色です。長い年月をかけてより白い
繭を作る蚕を選別して、今日の白色繭を獲得したのです。
解舒が容易
今日の繭では想像し難いですが、野性のクワコや初期
の養蚕繭は糸の外側に付いて繭を固めているセリシンと
云うニカワ質の蛋白質が少なく、今日の繭のように煮繭
しなくても、糸口を見つければゆっくりと細い1本の糸
を揚げられたから利活用に着目されたのでしょう。
それに引き換え、幾多あるクワコ以外の大型の野性繭は
繭層が固く強靭で、簡単にほぐれて糸を揚げる事は出来
ませんので、産業化の道から外れて行ったと思われます。
大人しい虫
もう一つ、昆虫の家畜化で大切な事は幼虫の運動性で
す。広範囲に動き回らなく、桑の葉をおとなしく食べる
虫が飼育し易いのです。人はクワコを逃げなく、飛翔も
しない家畜化に成功したのです。それが「蚕」、家蚕なの
です。それは固い樹皮糸(麻)や獣毛にもはるかに勝る、
軽く艶やかで美しく、柔らかく温かい理想の繊維の発見
でした。それをより沢山手に入れるべく、より従順な虫
ずくりに励んだのです。
強力な支配者の出現
数千年前になると、人々の中に国家的集団が出来て来
て、身分制度も確立してきます。
彼らは新しい絹という衣服を纏う事によって権威を示し
始めました。次第に絹の着用は支配階級の特権になって
行きます。最高級絹を表現する言葉に象形文字で書かれ
た「蝉翼火因霧」(蝉の羽根のように薄く、霧のように柔
らかい)と云う表現がそれを物語っています。
中国の歴代の王朝は絹の製法を西方等に伝える事を固く
禁じていましたので、古代ローマの人々は絹が何から作
られているか解らず、絹を「セル」、絹を作る人達を「
セレス」とよんでいました。
七夕まつりは男が桑を育て初夏に繭ができ、夏に糸に
なり、女が機織りをする「絹まつり」だったのです。
この様な上質な物を織る時は、織り姫を覗いたり、声を
かけてはいけません。気が散って織りムラができてしま
います。これが鶴の恩返しの話になっています。
日本では大化の改新から明治に至るまで庶民が絹の着
物を着る事を禁じていました(紬は可)。
絹の化粧品の予期せぬ効用
天蚕ハンドクリームで痒(かゆ)み解消
日頃、絹製品を販売しながら絹が身体にも環境にも良
い事をお客様にいつも話しています。
自分も季節を問わず下着は靴下まで野蚕の絹を着用し、
販売時にはではブラウスなども野蚕絹を着て、冬のマフ
ラーは絹の中で最も柔らかいエリシルクを使っています。
朝、ひげ剃りして顔を洗った後は、ひげ剃りクリームの
代わりに家蚕のシルクローションを塗り、手には天蚕の
ハンドクリームを塗ります。
そのせいか、馬齢を重ねた今も、一般健康診断では問題
になる数値は有りません。
絹の空気を吸っている当スタッフも同様です。
ところが、3年余り前から足のすねに痒みを覚えるよ
うなりましたので、皮膚科の医院に行った所、「老人性
乾燥肌で、誰しもそうなって行きます。」と診断され、
軟膏を処方されました。塗った直後は何となく痒みは収
まるのですが、夜半にふくらはぎの方まで強烈に痒くな
ったりする様になり、新たに軟膏や飲み薬を頂きました
が、薬が2,3日切れると痒みが戻って来ます。薬がなく
て大腿部まで拡大して来た夜、思い余って、いつも手の
甲に塗っている保湿性の高い天蚕シルクのハンドクリー
ムを足全体に塗ってみました。しばらくすると、不思議
に痒みが消えて安眠する事が出来ました。
その後は医者に行く事なく、3日に一度程度天蚕ハンド
クリームを塗っています。
思わぬシルクの効用にビックリしている昨今です。
痒みの原因は何で有ろうか
若い年代では古くなった皮膚は垢となって破棄され、
新たにみずみずしい皮膚が不断に代謝されますが、年を
とるにしたがって新陳代謝の衰えから、皮膚の表面の角
質層の代謝も衰え、古い表面の角質層の水分が失われ、
乾燥し、所々破れて、第2角質層が露出し、そこに雑菌
が繁殖し、皮膚の下から痒みを伝達する神経が表面に浮
き出し、痒いと云う警告を出していると思われます。
その時、親和性に優れ、保湿性が高く抗菌性のある野蚕
シルクのゲルを塗れば破れた角質層をシルクゲルが補修
した状態になり、とりあえず痒さは無くなると思えます。
痒さから解消されるもう一つの発見
老化を促進する余剰活性酸素の害を考えなければなら
ないと思います。
現在の地球環境は100年前とは比べ物にならないほど空
気には化学物質が浮遊し、同様に水も汚染され、食品も
幾種類もの化学物質が含まれ、ビタミン、各種ミネラル、
繊維質不足の人工栽培野菜等に囲まれた現代生活は、余
剰になった活性酸素の毒性を中和する力が弱く、どうし
ても体内に活性酸素が増えて、身体の老化等の様々な支
障を起こす事になると考えられます。
加齢による痒みも活性酸素過多による皮膚の老化がその
一因であれば、絹が活性酸素の害を中和して老化を抑制
し、痒みを解消していると思えます。
絹化粧品の機能性
シルク化粧品はシルクの持つ保湿性、抗菌性、防紫外
線性、吸臭性、吸色素性などを期待した物です。
シルクは人に必要な18種類の必須アミノ酸で出来てい
ますので、親和性に満ちていて殆どの人に拒否反応は有
りません。(シルクアレルギー者、1/25万人)
シルクローションをつけるとか顔が艶やかになり、紫外
線から肌を守り日焼けを防ぎます。特に夏期には汗に含
まれる老廃物から雑菌によりアンモニアなどが作られ、
汗臭さが夕方になると強くなって来ますが、シルクはそ
のような雑菌の繁殖を抑制しますので、汗臭さも和らぎ
ます。そればかりでなく色素や臭いを吸収する性質もあ
りますので少しではありますが、肌の美白効果が見られ
ます。シミ、ソバカスなどが濃くなるのを防ぎ、体臭や
老臭なども和らげます。また、コラーゲンの減少を僅か
でも抑える効果もあるようです。使用実験ですが、肌の
小ジワが少し目立たなくなります。
シルク化粧品の色々
シルク入り化粧品は1980年頃から大手化粧品会社か
ら発売されています。当時はシルクと云うイメージで売
られていて、機能性を大きく取り上げているアイテムは
殆ど有りませんでしたが、昨今シルクの機能性が次々に
解明されると、上記の様な様々な使用目的を持った化粧
品が作られる様になって来ました。
絹は繭の種類、部位によってアミノ酸の構成比率も異な
り、機能性も異なります。また絹をパウダやゲルにした
時、その粒子の大きさでも機能性が違って来ます。それ
らの事は専門家の間では常識になっていますが、薬事的
な認知はされていませんので、機能性を明確に表示した
化粧品はまだありません。
早く確かな研究が確立する事を願ってやみません。
絹の枕を作る
絹枕使用体感
先日、絹から高血糖値を下げるサプリメントを作って
いる会社から絹の残綿の有効利用はないかと相談を受け、
早速、絹の複数の糸商社にサンプルを送り、検討を依頼
しましたが、繭の形をした部分や真綿状の所、一部に糸
が切断された箇所も有り、繊維長も短く、桑葉の小片、
草木の小枝なども混入し、通常の真綿の状態ではないの
で、精練やカードなど、手間をかけても歩留まりも悪く、
一般的な絹紡糸を作る事は不可能な事が判りました。
そこで手間をかけずにゴミを取り除くだけの中綿絹100
%で、シーツ用エリ蚕の生地をカバーにした素朴な枕を
試作して使ってみました。
頭を枕に乗せるとフワっと耳の近くまで周りの綿が盛り
上がり、それでいて頭の着枕部分はそれほど沈まず、綿
が分かれず、柔らかーい暖かさに包まれ、その暖かさは
耳の下から喉を伝わり肩まで包み込んでくれます、その
感触の良さは筆舌し難いものがありました。深い眠りに
つけた事はいうまでもありません。半年来右肩の凝りが
ひどくなり、うっとうしい毎日が続いていましたが、翌
朝、肩こりが消えているのにビックリ。身体の動きも何
となく軽やかに感じたのです。常に野蚕絹のシーツと下
着上下を着て寝ていて、絹の肌触りには慣れていると思
っていましたが、また新たな絹の感触と機能性の恩恵に
出会いました。
絹と活性酸素
今まで絹は薄く使われて来ましたが、上記の枕の様に
あまり加工を施さず、厚く使う事で絹が人体にどの様な
機能性を発揮するのか調べてみる必要を痛感しました。
絹は保温、保湿効果により血行促進をする事はよく知
られていますが、それだけではこの劇的な肩こり解消は
説明出来ません。
家蚕絹フィブロイン(通常の糸に使う部分)は18種類
の必須アミノ酸で構成されていますが、その中に0.2%
のシスチン、0.1%のメチオニンが含まれ、それが毒性の
強い活性酸素の電子を吸着して中和する働きをし、12.1
%含まれるセリンにはその電子を受け取る補助をする性
質があり、この作用が肩こりを癒してくれる一因だろう
と考えました。
活性酸素とは
大気中に含まれる酸素分子がより反応性の高い化合物
に変化した分子や元素の電子などの量子をいいます。
人はこれがないと生きて行けませんが、過剰になると毒
性が強なる電磁波を中和しなければ老化や様々な病気や
癌の要因になると考えられています。
活性酸素の毒性を中和する物の中には緑黄野菜や魚介類
に多く含まれるビタミンCやE、カルチノイド、ホリフ
ェノールなどの抗酸化物質が有ります。
ところが最近ハウス野菜や養魚などには露地物に比べて
抗酸化物質が少なく(推定露地物の1/4)、かなりの量を
摂取しなければ癌などの抑制になりません。ハウス野菜
を4倍も食べる事は出来ませんので活性酸素を中和しき
れていない事が癌をはじめ様々な病気の多発の大きな要
因と思われます。
9種類ある活性酸素の中には食品や人が持つ酵素では中
和出来ない物が有り、前述の絹のアミノ酸はそれを少し
でも中和しますので癌予防や防放射能にも役立と思われ
ます。
絹糸昆虫の進化
昆虫と哺乳類は恐竜時代を過ぎると相互にめざましい
発展を遂げて来ましたが、絹糸昆虫は限られた葉のみを
食べているのに活性酸素から身を守るアミノ酸を得る事
に成功しました。その他、この事と似た特異な機能とし
て、糸の中に吸収された紫外線を無害な波長に変えて、
DNAの異変を阻止する機能も取得しています。
人類は多様な食性により、過多となった活性酸素に対抗
して来ましたが、どちらの選択が長い生存競争に勝てる
のでしょうか。
近代の人工的食料生産は健康な人類の将来を危うくさせ
ないか心配です。
絹を着ると気持ちが良い
絹を着るとサラットとして寒からず暑からず気持ちが
良いのは、細い繊維間に空気が沢山含まれるのと、アミ
ノ酸蛋白の構成由来からオキシトシンやセロトニンの様
な幸せホルモンが分泌されるので壮快さを感ずるのです。
絹にほんの少ししか含まれていない一部の蛋白質が活性
酸素の増加を抑制して、その毒性を中和すると考えると
絹の機能性の説明が明瞭になります。
そう考えると絹を着たり食べたりすると、手などが震え
るパーキンソン病などにも効果が有ると言えるでしょう。
絹の機能性研究をもっと深め、新たな絹の利活用に取り
組まなければならないと思いました。
絹のストッキング、靴下
絹の靴下の歴史
日本では、絹は晴れ着用として他の繊維とは別格に扱
われて来て、靴下に使うという発想には馴染まなかった
様ですが、昨今絹のストッキングや靴下が蒸れなくさっ
ぱりしてなんとなく気持ちが良いと云うので静かなブー
ムになっています。
絹の靴下が世界の歴史に登場するのは、1547年イギリ
ス国王ヘンリー八世へのスペインからの贈り物の中の一
つにあったそうです。
ヨーロッパの絹生産はフランス、イタリアが盛んであり
ましたが、当時スペインはヨーロッパの最強国で、服飾
などの流行の発信地でもあった事を思えばうなずけます。
それまでの靴下は革、毛、木綿が使われ、保温を主とし
た装飾的なものでした。
ところが絹の靴下は薄くて透明感があり艶やかで、軽く
伸縮性に富み、足にフィットして履き心地も良く、女性
の脚線美を強調出来ると云うので、スペインからイギリ
ス、フランスへと瞬く間に広がって行ったようです。
ヘンリー八世のあとを継いだイギリスのエリザベス一
世は絹の靴下をこよなく愛用したといわれています。
20世紀初めになってアメリカで爆発的に流行し一世を
風靡しました。それまで日本からの絹の輸出はヨーロッ
パ中心でしたが、アメリカへの輸出が主流になってゆ
くのです。
しかし1938年ナイロン生産が工業化されて、細くて太
さにもムラがなく、透明感があり、丈夫で安価なナイロ
ン製ストッキングが絹のそれに取って代わりました。現
在ではパンテイストッキングが中心になっています。
絹のパンテイストッキングの復活
絹のストッキングやパンストの泣き所は摩擦に弱く、
すぐ穴があいてしまい、高価な割には耐久性に欠ける点
が最大の弱点で、逆にナイロンのそれは摩擦に強く伸縮
性に富み、価格も安いので、瞬く間に広く一般化し、絹
のストッキングなどを駆逐してしまいました。
ところがポリウレタンやナイロンと絹を会わせて1本の
糸にする技術が開発され薄くて透明感があり、摩擦に強
く、伸縮性に富み、絹の感触を満喫出来るストッキング
等が登場すると静かなブームが起きてきました。
今日のシルクストッキングなどは殆ど化繊を芯にして、
芯の周りに絹を巻き付けた糸で編まれたものです。
新しいシルクストッキングの糸の構造
シルク・シングルカバーリングヤーン
伸縮性の大きいポリウレタンの糸を芯にしてシルクを巻
き付け、表面は全面シルクになる様に作った糸。
シルク・ダブルカバーリングヤーン
ポリウレタンの糸を芯にしてナイロンの糸を巻き付け、
強度を補強し、もう一層シルクの糸を巻き付けると云う
三重糸。
ハイブリッドシルク
ナイロン等を芯にしてその周りを数本の細い絹糸で芯と
同方向に並べて覆い、糸の表面は絹となる様にしたもの。
パンテイストッキングの編み方
ウーリータイプ
主にハイブリッドシルク糸を仮撚り加工し、細かにカー
ルさせて、その糸を何本か合わせ、撚りをかけて編み、
精練、熱収縮したもの。
シャータイプ
カールのない糸を何本か会わせ、甘撚りをかけて編んだ
もの。絹100%の靴下はこのタイプが多いが、価格も高
く、生産量もあまり多くありませんが少ない。履き心地
が良いので 根強いよい人気があります。
ケンネルタイプ
ウーリー、シャータイプの中間の糸で編んだもの。
サポートタイプ
伸縮性の大きいポリウレタンの繊維の回りに絹やナイロ
ンでカバーリングした糸で編み、編立後に精練したもの。
パンテイストッキングの流行
世界中、中性から現代にかけて女性の衣料は重装から軽
装になって来て、足を露出して曲線美を表現する様にな
り、パンテイストッキングの需要は益々増加しています。
絹ってどんな繊維
今日迄、色々絹の話を書いて来ましたが、絹がどんな
繊維なのか冒頭にお話すべきでしたが、そのつど話しを
進める上で必要な事を述べて来て、定かにしていません
でした。改めてお話してみましょう。
絹の成分
絹は天然繊維の中で綿や麻の様なセルローズ系の繊維
ではなく、ウールと同じような蛋白系のアミノ酸鎖で出
来た繊維です。その蛋白質も球状蛋白質ではなく真っす
ぐに連なる繊維状蛋白質で、セリシン、フィブロインと
いう2種類から構成されています。他にロウ質、炭水化
物などがほんの少々混じった特異な繊維です。
絹の蛋白質
セリシンとフィブロインは同じ蛋白質でありながらア
ミノ酸の種類と結合の順序が違うので、物理的、化学的
、生理的機能の違いが生じます。
セリシンのアミノ酸組成はセリンが1/3で水と親しみや
すいスレオニン、アスパラギン酸、グルタミン酸などで
70%威以上を構成している水に溶けやすい成分です。
フィブロインは分子量の小さいグリシン、アラニン、セ
リンなどで占められているので強く縦に結びついていて
強靭で伸縮性があります。
野蚕ではアラニンの方が多いといった違いがあり、蛋白
質の結晶の化学構造も異なるので、強度や各種機能性、
染色性の違いが出て来ます。この事が染織家に野蚕染ま
らないと云われる所以です。
絹糸の構造
1本に見える絹糸は蚕の体内にある左右1対の絹糸腺
から出された2本のフィブロインがセリシンで覆われた
ものです。
セリシンは水やアルカリに溶けやすい順に4層になって
フィブロインを包んでいます。
その割合は繭の種類によって異なりますが、家蚕ではセ
リシンが20%〜30%,フィブロインが70% 〜80%です。
セリシンを取り除く事を精練といって、きれいに精練す
れば滑らかなシホン地の様になり、なん部練りにするか
でシャリ感が出てきたり、生地の風合いや感触が違って
来ます。こうした加工の違いで絹が麻の様にもなりフワ
フワ、スベスベの柔らかい繊維にもなるゆえんです。
フィブロインは1000本のフィブリルの束から出来てい
て、さらにそのフィブリルは900本のミクロフィブリル
から構成されており、ミクロフィブリルは350本の分子
が縦に繋がって作られていて、それぞれが規則正しく縦
方向に並んだ結晶領域と不規則な並び方の非結晶領域が
4:6の割合で出来たものです。
これが絹の性質を決定づけている大きな要因です。
結晶部分の分子は強く引き合い、凝縮しようとするので
引っ張る力には鋼鉄より強いといわれ、弾力性に富んで
います。
非結晶部分は分子の並びがアットランダムなので伸縮性
があり柔らかく、不規則の分子の間に水分も多く吸収で
きるので吸湿性にも優れていて、吸湿する時発熱するの
で絹を着て暫くすると体が温まるという保温効果(空気
を含むというもう一つの理由もある)を発揮し、一定の
湿度を吸収すると放湿を始めるという溜池的な機能を果
たしています。放湿の時発生する気化熱は上がり過ぎた
温度をさますという役割を果たしています。
この様なわけで絹を着用すると品よくほのかに暖かく、
蒸れなくてべとつかなく、気持ちがよいというわけです。
こうした絹を構成する分子の幾種類もの親水基は絹の優
れた染色性にも寄与しています。
この様な糸の構造は繰り返し摩擦が加わると、フィブ
ロインが竹を割った様に裂かれフィブリルが枝毛になっ
て現れます、更に摩擦が繰り返されるともっと細いミク
ロフィブリルも裂けて湯気の様な繊毛を発生させます。
ですから、絹のもみ洗いは避けて下さいという理由です。
また、シャリットしたセリシンが多く含まれた絹を洗う
時はセリシンがニカワ質的蛋白質なので高温で洗濯をす
ると親水性と相まって水に溶け出してしまいます。
絹を長持ちさせるためには30℃以下の水で洗濯すると
よいといわれるわけです。
絹の食害
絹は古今東西人々の憧れの繊維で、古くは資産的価値
をも有する物でした。
したがって、絹は大事に仕舞われる事が多く、いざ着よ
うとして取り出したらいつの間にか虫に食われていて、
あわてた経験のある人は大勢いらっしゃると思います。
絹を食う虫
繊維害虫は今日までに40種類ほど知られていますが、
多くの繊維害虫は絹を食べません、しかし「蓼喰う虫も
好きずき」と言われるように、絹を好んで食べる虫もい
ます。この虫たちは絹を構成する蛋白質を消化する酵素
を持っていて、他の虫が敬遠する絹を独占して食べられ
るからではないかと思われます。
それは一般的に「カツオブシ虫」と言われる小さな虫で、
正式には「ヒメカツオブシ虫(鞘翅[甲虫]目)」「ヒメマ
ルカツオブシ虫(鞘翅[甲虫]目)の2種類です。
他にイガ(鱗翅目)という虫も絹を食べるので、日本に
はつごう3種類の絹食害虫がいます。
絹食害虫の食性
絹を食べる3種類の虫達の好物は絹よりむしろ毛です。
毛の中でも上等なカシミア(シャトウシュ)には目があ
りません。カシミアと一般の羊毛を一緒にしまっておく
と、カシミアの方に食害が集中します。
毛織物の善し悪しは虫に聞いてみるのが一番です。
この虫達は雑食性で食べる物がなければ木綿や麻などの
天然繊維ばかりか、ナイロン、ポリエステル、アクリル
などの合成繊維も食べます。
虫にとって絹の何処が好みか
肉や魚、野菜、果物どんなものでも美味しい部分とそ
れほどではない所があります。虫にとって絹にも旨い部
分とそうでない所がある様です。
絹の糸を作る時、糸を保護している糸の外側のセリシン
の取り方(精練)で糸の風合い、感触が千変万化します。
虫はセリシンが多く付いている物の方を好みますので、
シャリとしていたり、ザラっとしている物や艶のない固
めの絹紡糸、即ち、お米でいえば糠の部分が多く付いて
いる方を好みます。虫は栄養豊富な方を選択しているの
です。10づき米の様によく精練されてセリシンが殆ど糸
に付着していなシホンの様ない物はあまり好みません。
よく精練された物を虫が食べる時、未精練の物を食べる
ときの様に穴をあけるのではなく、糸の表面をなめる様
に食べる事が多いです。ちょっと目には穴があいていな
いので、虫には食われていないと思いがちですが、表面
を削られた糸の部分からは目に見えないほどの毛羽立ち
が起こります。
カツオブシ虫の行動
カツオブシ虫はあまり高い所は苦手のようで、地上か
ら!0〜15m位の高さしか飛ばないようですので、4階以
上の建物にお住まいの方は殆ど絹の食害は有りませんが、
エレベータなどで高い所にも辿り着き生活する虫もいる
ようですので気をつけるに越した事は有りません。
この虫は日本中均等に何処にでもいるわけではありま
せん。地方によっては生息しない所も有るようですが正
確な調査はされていません。
防虫対策
防虫対策の1番目は何といっても使ったまま収納しな
い事です。身体の老廃物や食品の飛沫など虫の好物を残
ささない事が肝要です。
絹は防虫加工しないのが一般的ですので、収納容器には
樟脳やナフタリン、パラジクロルベンゼン系等の昇華性
防虫剤を入れるのがよいと思います。
絹を食べる虫は食品も食べますので、家の中に食品の食
べ残し等が床や畳みに付着していない様によく掃除する
事、特に台所や食堂を清潔にしておく事が大きな防虫対
策です。
もう一つの防虫対策は仕舞い込まずに頻繁に使う事で
す。収納場所から出して風を通すのもその一つです。
絹を通った空気はほんの少し広葉樹林の森林浴的効果が
あると思われますので、その空気を吸う事で気持ちが和
らぎ,幸せホルモンの分泌が促され、イライラしなくな
ります。昔の殿様や明治の元勲達の部屋の襖や壁に絹を
多用した事もうなずけます。
虫が好む絹の方が健康維持の機能性などが精練されて
柔らかく艶のある絹より高いといえるでしょう。
これからは虫に教えてもらいながら絹を健康の為に使う
事を広めて行きたく思います。
食害を受けない絹
野蚕絹で特にタンニン類の色素がセリシンにもヒブロ
インにも含まれているタサール蚕や柞蚕、与那国蚕等は
虫がタンニンを嫌うとみえて、食害の報告はありません。
絹の後練り,先練り
絹は繭のどの部分を使うか、後練りか先練りかで織物
の柔らかさ硬さが大きく異なります。
大別して、長繊維として繭から揚げた糸(現代の繭から
は1500m前後とれる)を何本か合わせて糸にして、よ
く精練(繭糸の外側に付いているニカワ質のセリシンを
とる、練るとも言われる)された物は艶やかで、さらり
としていて張りがあり、「これぞ絹!」なのですが、絹
に不慣れな人からは麻ですか?と聞かれる事があります。
長繊維をとった残りは繭糸が切れていますので、短繊維
として絹紡糸(紡ぎ糸)にされます。
糸の撚りのかけかたにもよりますが、艶は長繊維の物よ
り劣ります。空気を含んでいて暖かく、木綿タッチでソ
フトな柔らかさがあり、一般的には喜ばれます。
後練り織物
羽二重はなぜ柔らかいか
よく世間では赤ちゃんのほほをなでて「羽二重の様な
肌」という様な表現をします。しっとりしていて、柔ら
かくしなやかな物に出会った時に使われます。
多くの人が抱いている絹のイメージなのでしょうか。
絹織物は先練りか後練りかで、しなやかさの性質が大き
く違って来ます。
羽二重を作る時は繭から揚げた糸(生糸)をニカワ質の
セリシンが付いたまま、糸に撚りをかけず、水でぬらし
て強く張った「たて糸」に、同じ様に撚りのない生糸を
「よこ糸」にして緻密に織り上げると、硬直してゴワゴ
ワした織物が出来ます(生機:きばた)。それを石鹸や炭
酸ソーダ、ケイ酸ソーダなどでの精練液で煮沸するとセ
リシンが溶けて除去され、今まで固くくっついていた細
くて長い糸の繊維の束の1本1本が動きやすくなって、
やわらかい織物が出来ます。これが後練りという技法で
す。
この技法で身近な物に縮緬やクレープがあります。
縮緬は生糸を「たて糸」にして、「よこ糸」に互いに撚り
の逆向き(S撚り、Z撚り)の強撚糸を2本ずつ交互に
織り込んで作ります。織り上がった生機はセリシンのニ
カワ質が付いているのでゴワゴワしていますが、精練す
るとシボのある柔らかいくサラリとした生地が出来ます。
同じ後練りでも随分感触が違います。
他にクレープデシンや光沢の美しさを強調した物に生絹
(きぎぬ)朱子、綸子、サテン等があります。
富士絹のやわらかさとの違い
よく羽二重とやわらかさを比較される絹に富士絹があ
りますが、富士絹は生糸を採った残り糸を細かく切って、
絹紡糸として木綿の様に織った物で、空気を含んだ柔ら
かさで、ぬめり感が違います。
後練りの化学繊維への応用
絹に限りなく近づけようと絹織物の後練り技法を応用
した化学繊維にポリエステルがあります。
先練り織物
先練り織物は生糸を精練してから織るのですが、生糸
をそのまま精練するとけばだってしまい、織りにくくな
るので、生糸にあらかじめ撚りをかけてから精練して、
セリシンのない絹糸(練り糸)を「たて」「よこ」に使っ
て織り上げた物が先練り織物です。
ブロケード、錦織、緞子などの美術的織物、サテンや
素朴な紬など、多くの絹織物は先練り織物ですが、糸の
練り具合と、糸の撚りの掛け方で硬軟、織物の風合い(
ぬめり、シャリ感、こし、張り、膨らみの強弱等手触り、
光沢、色、ドレープ性、絹鳴り、衣ずれ、視覚等の人の
心に触れる官能、など)が大きく変化します。さらによ
こ糸に太い糸など入れれば千差万別に組み合わが可能で、
限りなく幾種類もの織物が出来ます。
また、練り糸を染色してたて、よこに織ると縞、格子、
絣、各種多色模様など多種多様な先染め織物になります。
後染め織物には手描き、型染め、絞り、木版プリントな
どがあります。
産地の違い
後練り織物と先練り織物では精製に適した湿度が違う
ため、比較的湿度の高い日本海側に後練り織物産地が発
達し、内陸側に先練り産地が形成されました。
人類5千年の絹への切磋琢磨の結果
人が絹と取り組んで5千年の間に、糸づくりや織りの
多様さには目を見張る物があります。また、うすい物を
織らせたらインド、ドレープのしなやかさを表現するの
はイタリアなどそれぞれの国で特技があります。
絹文化を「世界共通の絹文化遺産」として国連に登録で
きないものでしょうか。
絹と花嫁の角隠し
綿帽子の始まり
古代日本では政権の武力の基盤である鉄は朝鮮半島か
らもたらされていました。
それを背景に大和朝廷は大化の改新を成功させるのです。
政権基盤が一段落した西暦663年、朝鮮半島で高麗、
百済連合軍に新羅が攻められ、苦戦する新羅に唐が加勢
し、形勢不利になった百済救済に大和朝廷は鉄等の交易
を守る為に、4万の援軍を朝鮮半島の白村江に送ったの
が「白村江の戦い」です。
大和には4万もの兵士に着せる軍装がにわかにありませ
ん。そこで各地で繭生産が振興しはじめて、税の「調」
として納められた、軽く、温かで防矢効果の優れた緜
(真綿)を兵装(胴衣、兜)に使用したのです。
特に兜は何層にも重ねた緜を濡らして固くて着装したよ
うです。
(鎌倉時代の蒙古襲来の時、蒙古兵の軍装は真綿と羊毛
のフエルト)
この時、綿帽子をかぶられて陣頭指揮をとったのが神功
皇后でした。
また神功皇后は応神天皇を懐妊した時、真綿の腹帯を巻
きました。この様なこまごまとした身の回りの世話をし
たのが侍女「伊波多姫(いはたひめ)」で、今日でも妊娠5ヶ月目にす
る腹帯を「岩田帯」というのはその言い伝えといわれて
います。
いよいよ出産となり腹帯が不要になると、伊波多姫はそ
の腹帯を頭に頂き、出産を万事取り計らったと言われ、
その後、祝い事の時は女性の髪の乱れを防ぐ実用を兼ね
て、真新しい真綿や白絹を頭に巻いて勤める風習が出来
たと伝えられています。
その後、伊波多姫の子孫は京都の桂に住んだので、「桂
女」と呼ばれ、出産や祈祷、祝い事などを専らの仕事に
して来ました。そのような時は必ず真新しい真綿を頭に
巻いて行ったようで、これを人々は「桂包(かつらづつみ)」と呼ぶよ
うになったのです。
宮中の観菊
平安時代には9月9日(旧暦)の重陽の節句は菊の節
句とも言われ、宮中では観菊の宴が催され、杯に菊の花
を浮かべて酒を酌み交わし、長寿を祝い、詩を詠みあっ
たそうです。
昔はこの季節、京都では霜の降りる事もあったようで、
菊の花に真綿をかぶせて霜除けをしたのだそうです。
「絹の綿帽子」と呼ばれていました。
菊の香りを含んだ真綿はなんとも言えぬ高貴な香りがし
て、その真綿で体をなでると、その年は無病息災に暮せ
ると伝えられていました。
時として、菊の綿帽子を頭にのせたとも考えられます。
花嫁の綿帽子
江戸時代になると武家を中心に、大きな祝い事である
花嫁の輿入れの時に桂女のかぶっていた綿帽子を花嫁が
かぶるようになって来ました。
しかし庶民にはそうはいきませんので、手ぬぐいをかぶ
る事も有ったようです。
花嫁の角隠し
時代が進むに連れて、綿帽子は、祝い事ばかりでなく、
実用にも色々工夫され、使われました。
寒風を凌ぐ「額綿」。{被綿(かずきわた)}など烏帽子の様な帽子風な
形が出来て来ます。
また、真綿ではなく、練って柔らかくした絹織物も使わ
れるようになってきました。
今日の花嫁の角隠しは意外に新しい事で、明治時代に
なってからの風習のようですが、昨今の結婚式に角隠し
姿を見かける事は少なくなりました。
風俗習慣と云うものは時代と共に知らぬ間に変化して行
くものです。
真綿は軍事にも使われましたが、庶民の生活の中に深
くとけ込み、風邪を引くと喉に真綿を巻いたり、布団や
褞袍(どてら)の皮に使ったり、生活の中にとけ込んでいましたが、
この様な事ももうすぐ忘れ去られようとしています。
戦後人工的に絹を作る研究が進み幾つもの化学繊維が
出来て来ましたが、いずれも絹には遠く及びません。
絹ほど親和性に優れた繊維はまだ他に見つかっても、出
来てもいません。
私達の生活に絹がどんな形で再登場して来るのか期待さ
れるところです。
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