Archive for the ‘絹の話’ Category
七夕まつりは絹祭り
今日の様な七夕祭りがどこで起こったか定かではない、中国の古文書等にもそのような記述がないようです。ですから自由な想像をめぐらすのもたいへん面白いので、少し遊んでみましょう。
絹は中国で5千年も前から産業として生産され始めた事は以前に書きました。ここで言う絹とは地球上に生息する10万種類余の絹を作る生物の中から、繭を作る昆虫を選び、野外には蓑虫や柞蚕の様に比較的大形で主に茶褐色をした繭は数多くあるのに、桑の葉を食べる小さくて頼りなげなクワコと云う白い繭を永きに渡って改良を重ね生糸を採る事に成功し、今日で云う家蚕繭から採る糸を言います。その頃、世界各地で人々はその地域にある各種野蚕繭から糸を紡いで利用してきた様です。生糸とは蚕が吐いた一本の糸を何本か寄合わせた物(当時の繭からは300m前後、現在の繭からは1500m前後)。生糸を精錬すると、紡ぎ糸に比べ格段に艶が有り、薄く、しなやかで、当時としては何物にも比較出来ないほど美しかったと思われます。それに比べて野蚕の繭から糸を採るのは、繭からスルスルと糸が出て来なく、苦労するばかりで生産が上がりません。今日でも同様です。そのような事から桑コに着目したのは当然と言えるでしょう。この成功は今日の原子力以上の意味を持っていると言っても過言ではありません。
こんなに美しい物を権力者が看過する訳が有りません。殷や周のように強大な権力が確立されて来ると、絹の生産、販売等を手中に収め莫大な利益を得られる様になり、権力の基盤も安定して来ます。その頃には天文学も発達し星座にまつわる色々な話が一般に語られるようになっていたと思われます。
春の桑の葉を食べて育った蚕が6月上旬繭を作り、生繭を乾繭にして、生糸を採り、織る人に手渡す頃が丁度、天の川がきれいに見える頃になります。牽牛(養蚕夫)から織女に渡る時です。
絹づくりのめやすは七月七日が農から工へ移行する時とし、天子は美しい織物が出来る様に天の川に祈り、庶民は絹増産のお祭をしました。繭の生産は夏コ、秋コ、と休みなく早朝から深夜まで寝る暇が無いほど過酷な作業が続くので、その中間の梅雨の晴れ間の様な骨休みの一日なのです。今日で言えば、村興しの殖産興業祭りでしょうか。七夕まつりを星祭りにしたのは、美しい織物を織るには少し湿度のある人のざわつかない静かな夜です。静寂で星の降る様な夜には透ける様なしなやかな物が織れると信じられていたのでしょう。今でもインドでは、織り上がる迄家族とも会わず、一気に織ります。
中国は古代からどの王朝も絹の生産方法を秘密にしてきましたので七夕まつりが絹の振興祭りであれば、その本旨は物に記したりしなかったと思われるので、本当の事が伝わっていないではないでしょうか。3,000年ものながきに渡って絹の製法の秘密を守り通して、その独占的利益で栄華を築いて来た執念には敬服するばかりです。
今日でも中国は最古の古代繭をえんえんと毎年採卵して、種の基を保持していますが、世界の学術会議であろうが何であろうが、決して公開しません。日本でも蚕種を保存するセンターが小淵沢に有りますが、明治以降のもので、中国に比べればほんの僅かなものに過ぎません。絹5,000年の歴史の中で日本が中国に勝るのは明治前期より以降100年にすぎず、昨今では質量ともに比較になりません、絹及び蚕がレアメタルの様に先端産業に不可欠な物になる時代が来ないとも限りません。
七夕まつりには誰も語らないもう一つ大事な事が隠されています。
七夕には竹に短冊を吊るします。今日では色々な色の紙の短冊ですが、本来は絹紙の短冊を吊るすのです。 繭から糸を作る過程で、毛バやら屑糸等沢山でます、殆どは紬糸等に加工しますが、ほこりの様な屑を細かく切って、トロトロになる迄煮込んで漉いて紙を作ります。この紙の短冊に願い事を書いて吊るすのです。七夕まつりは紙作りの祭りでもあるのです。
絹は余す所なく使うエコ産業なのです。そのような利用方法は今日では紙への利用はほんの少しですが、パウダにして、化粧品やサプリメント、食品添加など巾広く利用されています。
紙と云う字には糸へんを書きます、糸と云う字の象形文字は三つの繭から三本の糸がよじれて上がって行く様子を表したもので、漢字が出来る時、絹を使って出来ている物は糸へんを書いたのです。ですから綿は絹綿を表し、棉は木綿綿を表します。漢字ができる頃までは紙は絹で作られていたのでしょう。
古代の七夕の短冊に色々な色の短冊が有ったかどうか知るよしもありませんが、絹は木綿と違って非常に染色性が良く、ムラにもなりにくいので、草木で染めた色とりどりの短冊が風になびいていたと思うと実に心豊かになります。
いにしえの様に絹漉紙の七夕まつりをしてみたいものです。
フランスは日本の絹産業の恩人
ルイ王朝と絹産業
絹の製法が東ヨーロッパ(トルコ)に伝わったのは6
世紀といわれています。ローマ時代から中央アジアやヨ
ーロッパの貴族達は何とかしてシルクの製法を入手いた
いものと色々な策を廻らしていましたが、中国の歴代王
朝は蚕の卵の持ち出しや、その製法を黄の時代から3千
年のながきに渡って秘密にして来たのでした。
それは黄河周辺の漢族が絹の製法を確立して、絹をもっ
て西方から各種種子、鉄、馬などと交易し、兵にも絹の
フエルトを着せ、強大な国を作る礎になって来たからで
す。13世紀になってフランスのルイ王朝が強大になって
来ると自国で絹を作り、貴族達にふさわしい衣装を作ろ
うとリヨンに各地から、染織、織物の職人(ギルド)達
を集め、中国に勝る絹織物文化を作り上げて行くのです。
ヨーロッパに微粒子病が発生
繁栄を極めたフランスの絹産業は1850年〜60年にか
けてフランスを中心にヨーロッパ全土に、蚕の幼虫期(
2〜3齢期)に小胞子虫が蚕に寄生し、蚕が死んでしま
う微粒子病が大発生し、ヨーロッパの絹産業が壊滅的ダ
メージを受けてしまいました。
そこで新たな蚕種製造が渋沢栄一らによって確立された
日本から、病気に冒されていない蚕の卵を大量に輸入し
ましたが微粒子病は終息せず、日本の蚕種業を潤しまし
たが,最新動力製糸工場なども稼働出来なくなってしま
いました。
その様子を幕末に幕府会計方としてパリ万博に派遣され
た渋沢栄一はつぶさに見聞し、人脈も作って来ました。
パスツール、微粒子病発見
フランスのワクチンなどの医療法を開発した細菌学者
ルイ・パスツール(1822〜1895)が微粒子病を発見しま
したがフランスの養蚕業は再興せず、アヘン戦争で混乱
し、イギリスに支配された中国から輸入する事も出来ず、
絹生産の勢いが高まる日本が注目される事になり、フラ
ンスは自国生産をあきらめ、後進国を指導して、安定的
に輸入する政策に転換して行くのです。
富岡製糸所とパリ万博
1867年のパリ万博には幕府と薩摩藩、佐賀藩などが参
加し、「四季花鳥の図」等の絹織物や日本の着物姿の女性
の茶の湯接待などがジャポニズムブームを巻き起こしま
した。参加していた渋沢栄一はフランスの製糸工場など
も見学していましたが、1868年大政奉還の報を聞くと急
遽帰朝し、政府高官となってフランスの最新製糸工場の
誘致を画策し、伊藤博文の命により明治5年にフランス
の製糸技術者ブリューナを招聘して富岡製糸場を開設し、
日本の近代絹産業の礎を築きました。
フランスへ留学生派遣
富岡製糸場を通して日仏の需要供給の流れは結ばれ、
富岡で生産された絹糸はフランスのリヨンに運ばれて行
き、市井の農家の絹糸はアメリカ等に輸出されました。
日本ではより付加価値の高い絹織物を作るため、1872年
に京都の西陣を中心に、養蚕、紡績、図案、染色、織物
など各人目的を持って第1陣を、翌年第2陣、1877年に
は第3陣の留学生を派遣し、フランスも彼等を暖かく迎
い入れ、惜しみなくその技術を教えてくれたようです。
この成果が日本の絹の世界的評価に繋がってゆくのです。
この留学生達が中心となって開かれた絹の専門学校が今
日の京都工芸繊維大学、東京農工大学、信州大学、群馬
大学です。
農商務省原蚕種製造所(後の蚕業試験場)設立
江戸時代までは絹の輸入国であった日本は、明治にな
って飛躍的発展を遂げ、主たる輸出品に成長しつつあり
ましたが、各地の蚕種がバラバラで糸質もフランスやイ
タリア、中国にも及ばないものでした。
そこで政府は全国の蚕種、元蚕種の改良統一を図るため、
1911年(明治44年)に農務省原蚕種製造所(後の蚕糸
試験場)を東京、京都、群馬、福島に開き、主に蚕種の
製造と品種の改良行ない、その結果良質な日本の生糸が
生産され始めました。その後この試験場は沖縄まで全国
各地設置され、この年蚕糸業法も制定して、繭の糸以外
の加工を禁じて、日本は絹糸生産に邁進しました。
つかぬ間の繭生産世界一
こうした官民挙げての努力で、1928年(昭和3年)に
は全国221万戸の農家で約40万t強の繭生産を果たし、
世界一の繭生産国になり、絹が当時の日本の輸出総額の
40%強となりました。
ところが、この利益で軍備が拡張され、絹の師匠である
中国に侵攻し、顧客である欧米列強と戦う第二次世界大
戦に突き進んで行ったのです。
戦中、桑田は荒廃し,戦後繭生産は復興の兆しを見せま
したが、新たな化学繊維の登場で、今日では100 t位と
なり、大量輸入国となってしまいました。
シルクロードが拓ける時代背景
シルクロードの命名
今日語られている「シルクロード」と云う呼び名は19
世紀後半ドイツのリヒトホーヘンが「ザイデン・シュト
ラーセン」と呼称し。その弟子で4回にわたって中央ア
ジアを探索し、桜蘭の遺跡などを発見したスエーデンの
ヘデインがその名を書物に書いて一般化してきました。
その他にも敦煌千仏洞の古写本を発見したイギリスのス
タインや日本の大谷探検隊などがシルクロードの夢をか
き立てました。
中央アジアの民族移動
中国の周の時代(紀元前8世紀頃)になると牧畜、農
業などが発達し、人口が増加して各邑が国となり互いに
覇を競い、紀元前6世紀には騎馬遊牧民で金属器文化を
持ったスキタイ、紀元前4世紀には陰山山脈方面に匈奴、
天山山脈方面に烏孫、タリム盆地周辺では月氏等が強大
になり始め、西方ではアレキサンダー大王の東方遠征が
あり、春秋戦国の時代を迎える事になりますが、多くの
民が戦乱を避け、各地に移動を余儀なくされました。日
本にも多くの人々が押し寄せ、縄文人を駆逐、同化しな
がら、農耕文化の弥生時代を招来した様に、漢族の膨張
のみならず、匈奴が月氏を西方に追いやった事で大きな
民族移動の波が起こってきました。月氏は中央アジアに
逃れ、「玉を東に絹を西に」に運ぶ交易を生業にする大月
氏となって行きます。
交易の必然性
戦いに勝って生き残る為には優れた新たな兵器を入手
する必要と相手を調略して攻め込まれない様にしなけれ
ばなりません。それは西方のヒッタイトが作った優れた
鉄(製鉄技術)と馬(汗血馬)が是非とも必要でした。
外交物資では絹織物、真綿、紙が特に有効で、屑真綿か
ら作られる絹紙(草木紙は漢代になってから発明、それ
以前は木簡綴り)は漢字が整備されて勅命や思想を正確
に通達する重様な戦略物資でした。真綿は兵の防寒と防
矢性に優れ、軽く運動性に富み、抗菌性など兵の健康維
持に役立ち、馬の負担を軽減し、鉄が攻めの武器なら絹
は守りの武器として極めて有効な物資でした。
西からは小麦、大豆、瓜、フエルト等、生活文化を支え
る重要な資源がもたらされ、シルクロードはこれらをよ
り安全に運ぶ道として拓かれる必然があったのです。
ルートの色々
一口にシルクロードと言っても編の目の様に色々なル
ートが出来、大きなオアシス都市で合流し、また分かれ
西方に到るのです。大別して順次4本の道が出来ました。
初めに南ルート—長安→敦煌→タクマラカン砂漠南側と
混論山脈の裾のホータンを通り→オアシス都市カシュガ
ル→サマルカンド→アレッポ→ローマの道が発達して来
たようです。
次に中央ルート—長安→敦煌→タクマラカン砂漠北側、
天山山脈の裾のトルファン→クチャを通りカシュガル→
サマルカンド。
北ルート—長安→敦煌→ビシュバクリから北はゴビ砂漠、
アルタイ山脈の北裾をぬけてタラス→サマルカンドに到
る道ですが、古から重なる民族移動でかなり踏み込まれ
て来た道でもあります。
海ルートは「海のシルクロード」と呼ばれ、陸路が乾き
や盗賊などの危険があまりに多いので漢の武帝は杭州→
広州→インドシナ半島→インド各地で交易を繰り返しエ
ジプトのアレキサンドリアに到る海路を拓きました。
張騫、法顕の西方探索
漢の武帝は広域な領土を支配する様になると兵の駐屯、
迅速な情報の伝達の必要性と文物の交流で大きな利益を
もたらすシルクロードをより安全で効率よいものに整備
する必要にせまられてきました。西域の事情を知るため
「張騫」を交易の民となった大月氏に派遣しました。
相次ぐ戦乱で民心は従来の儒教的道徳律では救われない
と新たに伝わって来た仏教に傾倒して行きますが、その
形骸は伝わって来たもののインドからの高僧は中央アジ
アの中継貿易で栄えるバーミアン周辺に留まり東の果て
にまで赴いてくれませんでした。5世紀の初め「仏法と
西方の事情」を調べるため、下級官吏の「法顕」が苦
難の道を辿り陸路でインドに到り、帰路は海路で帰朝し
「仏国記」を著し西方の事情を明らかにしました。
玄奘の仏法の道
4世紀末中央アジアの鳩摩羅什が仏典を漢訳し、6世
紀にはインドの達磨が中国に渡りましたが、7世紀初頭
になっても仏法の教義が脆弱であった為、三蔵法師が往
復陸路でインドまで赴き、教典を持ち帰り、「大唐西域記
」を著しました。その後「義浄」が往復海路でと渡印し
「南海寄帰内法伝」を書いています。
日本では遣唐使の「空海」などが大量の仏典などを持ち
帰り、8世紀のはじめに「鑑真」が戒律を伝えました。
絹の考古学(その5)
絹と紙
紙の発明前
現在の紙は木材等のパルプから作られていますが、最
古の紙(紙らしき物)は紀元前3000位前の古代エジプ
ト王朝でパピルス(カヤツリ草の一種)から作られたと
いわれています。ヨーロッパでは紀元前2500年位前に
は羊皮紙が作られていたようです。
同じ頃、東北中国にも南部から養蚕技術が伝わって来る
と、繭から糸を採った残糸で敷物や風呂敷の様な物が作
られたと云われています。
また、紙とはいわれませんが、南太平洋の島々(トンガ、
サモア等)で現在でも作られている「タパ」といわれる
腰飾や敷物、壁材に使うクロスがあります。
それは木の皮を剥いで叩いて延ばし、ベニヤ板の様に、
たて繊維とよこ繊維を相互にタロイモなどの糊で2〜3
枚は貼り合わせ、手描きや拓本で模様を描いた物です。
これも紙に発展する過程の物ではないかと思われます。
いずれにしても人々が邑をなし、権力者が生まれ、生
活を律する神事や、王の命令などを正しく伝える為の「
文字」が作られなければ、紙はあまり必要に迫られる物
ではなかったのではないでしょうか。
私が文字を持たない石器時代さながらの南太平洋の島
(マレクラ島)の人々と生活した時、紙には誰も興味を
示しませんでした。
日本でもつい最近まで木を紙の様に薄くした「うす板」
が肉などの食料品を包むのに使われ、魚屋などではそれ
に品名値段などを書いて商いをするのが普通でした。簡
単な覚え書き程度のものはなにも紙でなくても、木簡で
もよかったのです。奈良時代までは木簡も多く使われ
ていたようです。
紙の発明—紙はなぜ糸ヘンか
紀元前3000年頃の中国の黄河文明当時の絹には撚り
のかかった細い糸は作られておらず、権力者も庶民も手
紬の太い糸で専ら寒さから身を守る物づくりが中心でし
た。それから千数百年を経て殷の時代になると、占いな
どの象形文字が亀の甲に刻される様になり、文字が急速
に発達して来ます。それは広範囲に権力が及び、王命を
正確に伝達する手段として、また賢人の言葉を広く流布
し、国の道徳律を統一する為にも紙は必要欠くべからざ
る物になって行くのです。
権力者の為に均一な汚れのない上質な糸を作ればそれだ
け屑糸が出ます。また使い古しの真綿(絮)なども出て
来ます。それらをまとめて熱い灰汁(あく)湯で煮熟し、水にさ
らして不純物を除き、水の中でほぐし、叩いて均一にし、
干して、「絲絮片(いとじょへん)」と云う一種の不織布が「紙」と云われ
ようになりました。それはタパのように厚手の物で、敷
物などに使われていました。
ある時、その敷物を作った後の水中に浮遊している細か
な糸片を漉いて干した薄物も紙と云っていたようです。
これが紙の始まりです。
その紙は軽くて持ち運びし易く、多くの情報を正確に記
載でき、紙と文字は車の両輪の様に発達し、権力がその
上に乗って強大な王朝が形成されて行く基になって行く
のです。
周王朝の中頃には撚りのかかった薄絹も織られる様にな
り薄絹生地に沙汰書を書く様になりましたが、漢の時代
になると周辺諸族の活動が活発になり、彼らに力を示し、
慰撫(いぶ)する為にも上等な真綿(緜)を使って紙を作る事が
求められて来ました。それは「緜糸」と云われる最上級
の紙となって行きます。
紙は絹から作られたので、糸ヘンを書くのです。
さらなる紙の発展
中国の漢の時代になると樹皮や草木から紙が作られる
様になりました。この大発見が今日の紙です。
シルクロードが開けて中国から紙がヨーロッパ、エジプ
ト方面に行き渡ると、長き歴史の羊皮紙もパピルスも次
第に姿を消して行きました。
技術革新は今も昔も熾烈なのです。
絹紙の現在の評価
亀甲文字の大家に絹生地に筆で文字を書いて頂いた事
がありますが、書家はなにも言わずに作品を納めて下さ
いました。しばらく後、絹100%ではありませんでした
が、絹紙を作った会社があり、それを著名なひら仮名書
家に平安時代の様なひら仮名をしたためて頂きました所、
「この紙は筆がすすみ難い」と言われました。
絹紙は筆のすすみが和紙に近いと思っていましたが、専
門家には和紙の方がよいと云う結果になりました。
絹紙は漢字には良く、しなやかなひら仮名には不向きな
のでしょうか。紙は古代からの情報化時代を担って来ま
したが、新たな電子機器による情報化時代にどの様な役
割を果たして行くのでしょうか。
絹の考古学入門(その4)
殉死とは
王や后妃、諸侯、諸侯婦人などの権力者が亡くなった
とき、寵臣や側近、寵妾(ちょうしょう)、愛婢(あいひ)、多くの奴婢達が王の
墳墓の陪葬坑(ばいそうこう)に自主的又は命令で葬られる事を言うので
す。が、王が亡くなってから幾多の儀式などを経て壮大
な墳墓に葬られる迄に長い時間がかかると思われます。
寵臣達はそれら諸般を一切すませて自ら陪葬坑に横たわ
るのか、他所で静かに自害して葬ってもらうのか歴史は
語ってくれません。殉死を命じられた側近の兵や員数合
わせの奴婢奴隷達の気持ちはいかばかりか心が痛みます。
殉死の風習が起こって来たのは中国の東周の時代以降
の春秋戦国の時代から秦に至るまでの紀元前700〜約7
00年間のようです。日本でも規模や形式は違っても、明
治の時代になっても殉死と云う風習は残っていました。
時代背景
中国山東省の東周期とは青銅器から鉄器に移り変って
行き、鉄と云う新しい文化に触発され、諸国の王が覇を
競う戦国時代への移行期でありました。
南から伝わって来た絹の生産が北東中国でも盛んになっ
て来た時代で、絹はまだまだ未精練や無撚糸の紬の様な
素朴な織物が主であったと思われます。この時期、絹の
製糸技術(特に撚りをかけた細い糸がつくられ始める)
が急速に発展しはじめ、絹は権力者にとって自ら装って
権力を誇示する絶好の品であるばかりか、周辺諸王との
外交の重要品目として重視され始め、家臣に下賜する効
果的品でもありました。後世絹は臣下への給与の一部に
なって行くのです。
出土品から推測
当時の出土品に、銅壺に鋳出された「躬桑礼(きゅうそうれい)」の図柄
の物があります。それはその年最初の春(はる)蚕(こ)を飼いはじめ
る為の桑摘み儀式の図柄で、后妃、諸侯婦人も蚕母(宮
中で養蚕に携わる女性)や蚕婦(諸侯の元で養蚕〜織布
に携わる女性)達と一緒に桑摘みをしている様子を現わ
しものです。これは宮廷や諸侯の間で養蚕が盛んに行な
われていた事を物語っています。
そんな時代の古墳から蚕形玉髄(ぎょくずい)が発掘されました。
これは蚕母、蚕婦達の養蚕、製糸、織布技術が向上する
ように権力者が高価な翡翠で作らせた蚕型の装飾品で、
常に腰から両方の太もも付近に紐で向かい合わせの対で
吊下げていたと思われます。
彼女達は常にこれを履き、国の盛衰を賭けて細い糸作り
と薄くてよりしなやかな織物を作る事を求められていた
のでしょう。艶々して、薄く、しなやかな絹織物は、国
威示す象徴的な物になって来ていたのです。
蚕母、蚕婦の殉死
王、が亡くなると、ここで働いていた大勢の中から15
才〜30才くらいの若い女性の幾人かが、命により蚕形玉
髄(玉蚕)を佩き、王の墳墓の陪葬坑に葬られたのです。
いずれの玉蚕も出土部位の骨格の腿(もも)から足の傍で発見さ
れています。王の墓からは絹織物、絹糸束、錦など残り
にくい絹製品が沢山出土していますが、残念ながら陪葬
坑には骨と玉蚕しか残されていません、坑の作り方によ
って絹は早く分解して残りにくいので、彼女達の装束は
どのようであったか分かりません。何も衣類の痕跡が残
っていないとしたら、絹を着せてもらってあの世に赴い
たと思われます。彼女達はどんな風に葬送されたのでし
ょう、哀しむべき事と云う他はありません。
殉死の背景考察
この墳墓は紀元前400年頃のものではないかと推測さ
ます。これから後、絹の利用範囲は寒さを防ぐばかりで
なく鉄の武器(鏃(やじり)など)ら身を守る事が出来る有効な
機能が認識されはじめ、諸王は競って絹の増産に励むよ
うになりました。特に北東中国では北方異民族が西進、
南下を繰り返すようになり、その防備に異民族に負けな
い強い大兵団を組織する必要に迫られていました。増産
される絮(じょ)(絹綿)を兵に支給し防寒防弾着をつくらせた
のです。絮衣は軽く、兵の戦闘能力を増大させたばかり
か、馬への負担を減らし、絹の抗菌性等の機能性により
外傷ケアに効果があり、皮膚疾患の予防にもなって『絹
は力』となってゆくのです。
村役人は各戸を回って養蚕を薦め、緜(めん)(高級な真綿)
絮(低級な真綿)と織物を厳しく取り立てる様になりま
した。こうして絹は鉄と共に国を富ませ強くする、表裏
一体の新しい産業として歴史に登場して来るのです。
富国強兵
日本でも大化の改新後の7世紀中頃、朝鮮の白村江の
戦いに出兵した兵士に緜甲(真綿を固く加工したもの)
と絮衣を着せたといわれています。
昭和の初期には絹が日本の輸出総額の45%前後となり、
富国強兵の国策を支えたのでした。
絹の考古学入門(その3)
銅鐸の鋳画像の推敲
銅鐸
銅鐸は弥生時代の青銅器の一種、形は釣り鐘状、上方
に半円形の鈕(ちゅう)、両方に扁平な鰭(ひれ)状の突起があり、厚手の
物は20㎝、薄手の物は150㎝と大きさは様々で、近畿
地方から多く出土していて、祭祀の為に制作された物と
考えられています。
その側面の多くは狩猟、漁労、農耕の三つが表現されて
います。しかし上記の1、2図に関しては諸説がありま
すので、諸説をご紹介しながら色々推考してみたいと思
います。いずれも活動の刹那を捕らえた表現が多く、絵
画と言うにはあまりにも抽象的で、叙事詩を語る絵文字
のようにも見えます。想像をかき立てられます。
稲の虫払いの道具説
弥生時代近畿以南はウンカの発生が多く、麻柄(あさがら)で作っ
たカセでイナゴをかせぎ落とす神事をしたと云われてい
ます。虫送りの行列が村はずれまで行き、銅鐸の多くが
村境に埋められている事がその証ではないかと云われる
所以です。
コンパス説
高床式住居など複雑な建築物が出現し、正確な円や直
角を描く事が必要になり、カセの横木を垂直に立て円を
描いたと云う説、上図3がそれを示唆しています。
漁具説
上図2には魚が描かれています。手に持つ道具は魚を
採る延縄(はえなわ)を巻く糸巻きで、まるい点線は魚を入れる編袋
ではないかと云う説。但し数多く出土した銅鐸の中で魚
が描かれている物は他に有りません。
水平器説
人物像が手に持つ工字形器具は水田をならすとき使う
水平器ではないかという説。
糸巻を取る「かせ」説
この時代身体を保護する織物は食と同じく大変重要な
日常作業であったと思われます。従来のどの植物繊維か
ら作る物より、軽くて柔らかく、温かい絹と云う新繊維
が普及し始め、春繭が収穫され、糸を紬ぎ、機織りの準
備が整う天の川が綺麗に見える頃、池や川の水の畔(魚
などの恵みに感謝)に高床の棚小屋を作り、そこに女性
(棚機つ女(め))が心霊を受けて機(はた)を織(お)った神事を「七夕ま
つり」として絹の普及増産に努めた事などを考えると、
銅鐸の1、2の表現は、糸を紬いでその糸を桶にとり、
そこから手に持った道具、即ち「カセ」に巻き取る姿で
はないだろうか、図4からも推測出来るところから、こ
の銅鐸の表現は「カセ」という説が有力になりました。
疑問 ? ?
図4の女性は、立て膝をして、「カセ」を胸元に持っ
ていて、片方の手は自分の膝上で桶からの糸を支えてい
ます。ところが、銅鐸の表現1は「カセ」を自分の目線
より少し高めに持ち上げて、片手は空を掴んでいます。
図2も類似しています。此れ等の図柄が糸を巻き取る「
カセ」と断言するにはやや躊躇します。
当時中国から度量衡のシステムが移入され、「カセ」は
糸を「カセ」に取る道具であり、何回巻くと1反分の糸
である、と云うふうに糸の量を測る道具として大切にさ
れたのではないだろうか。この長さの基本は家を建てる
時も、魚を獲る延縄を作る時も使われたではないでしょ
うか。銅鐸の奔放な図柄は糸を巻き取る道具としてばか
りでなく、尺度の基本として活躍している姿ではないだ
ろうか。
稼(かせ)ぐ
銅鐸が作られていた時代、糸を「カセ」に巻きとリ綛(かせ)
(カセからはずした糸の束)を作る事を「カセグ」とい
った様です。沢山綛を作れば当然豊かになります。いつ
の間にかお金を稼ぐ事をいう様になりました。
絹の考古学入門(その2 糸質、繊密度の変遷)
絹の繊維は時代と地域により変化
小氷河期が過ぎた1万年〜8千年前、地球の温度が現
在より5℃近くも高くなり、針葉樹から広葉樹が繁茂し
て来ました。桑の木も、その葉を食べるクワコも大いに
繁殖し、その環境の中で、中国の浙江省付近で野性のク
ワコから家畜化された1化性蚕(年1回羽化)の小型な
家蚕が誕生しました。
それらの蚕は北や南に伝わり、より温暖な南に伝播した
ものと、寒冷北に伝わったものとでは、気温違いで餌の
量と桑の葉の栄養素の違いで、数千年という長いい間に
様々な品種に分化して行きました。
糸質も地域年代によって南の丸みのある糸、北のやや扁
平な糸など様々になって行きました。
絹繊維の変遷
発掘される絹は人骨に付着していたり、刀剣などの柄
に巻かれていたり、漆と絹で作られた棺の一部であった
り様々です。
古いものを鑑定する為には、それらの絹がいつの時代、
何処で作られたか特定する必要があります。放射性炭素
測定などでは100年前後の誤差がありますが、おおよそ
の年代測定は出来ます。しかし何処から運ばれて来たか
は判りません。
近年それを特定する新たな三つの方法が(京都工芸繊維
大学、布目順郎教授提唱)定着して、放射性炭素測定よ
り細かな年代測定が出来るようになりました。その手法
によれば何時の時代のどの地域で作られた糸か、おおよ
そ見当がつくようになりました。
この方法により世界の博物館などの年代未確定絹収蔵物
の数々の年代確定をする事が出来るようになりました。
その一つは糸の「断面積」(糸の切片を作り、セリシン
で固められた2本のフィブロインの片方の面積)を測る
方法です。この断面積はその地域の年々の気温の変化に
微妙に連動しているのです。その僅かな違いを読み取る
方法です。これは古代から現代迄の気温の変化の記録と
発掘された膨大な絹の断面積計測データーの蓄積のたま
ものといえるでしょう。
次に糸の「断面積完全度」(断面積を計った半お握り型
繊維の最長で円を描き、円の面積と繊維の面積の空間率
)を測る方法です。気温が低い年代や地域では数値が低
く、糸がやや扁平になり、気温が高いと逆になります。
絹糸は時代と共に微妙に変化しているのです。
更に「ウラジネス繊維」(糸からはがれたほんの微細な
枝毛)を観察する。
中国の漢の時代以前までは繭から揚げた生糸のニカワ質
部分を精練して取り除く事が無く、ハリハリした状態で
利用されたようで、糸はニカワ質に固められていて枝毛
は出ないので、時代判定の一つの根拠になっています、
織り密度
絹は他のどの繊維より細い糸を作る事が出来ます。
一つの繭から揚げた糸を忽(こつ)と言い、5個の繭から揚げた
糸を「糸」といっていました。
今日、糸と云えば撚りが掛かっている物が普通ですが、
新石器時代から春秋戦国時代までの中国では、絹織物は
撚りのかかっていない無撚糸を使っていました。
殷の時代頃になっても撚糸技術は未発達でしたが、経糸
(たていと)80本緯糸(よこいと)30本(1センチ四
方)という非常に細い糸を作り、織の技術は全て平織り
ですが、薄い織物を作る技術をもっていました。 漢の
時代までには撚糸、精練技術が発達し縦糸120本と云う
極細糸で絹が織られるようになり、この様な絹織物を蝉
の羽根の様に薄く霧のように柔らかいと言いました。
唐の時代になると地球の気温が現在より2℃ほど上昇し
て、繊度も太くなり、繊り密度も経糸68本緯糸36本と
いったやや粗な物に変化します。宋の時代になると多彩
な文化が花開き、絹織物技術も多岐に渡って来ます。
日本では縄文式時代の繊維の発掘物は苧麻、大麻、藤な
どの様々な植物繊維が紐(ひも)や縄(なわ)に使われていて、稀に絹と
思われる痕跡が土器等の付着物にあるようですが、衣類
としての織物は発見されていません。
弥生時代になって無撚糸の織物が出土されますが、平織
りで、織り密度は粗い経糸28本本緯糸18本くらいの物
が多く、中国に比べて製糸技術が未発達であった事が伺
われます。 それら等の糸は繭から直接糸を引き出す「
ずりだし」又は真綿から撚りをかけずに引いた「紬」で
あったようです。この方法は古墳時代まで続きますが、
弥生時代末期、卑弥呼が魏帝に献上した和錦も紬糸を使
った物であったのでしょうか。奈良時代になると撚り糸
の織物が多くなり、織り密度も経糸50本緯糸35本前後
の物が多くなって来ます。室町時代のなると人の趣味趣
向が多岐に分化して来て、経糸緯糸の本数が接近した織
物など多様な染織文化が花開いて来ます。
絹の考古学入門(その1 日本の絹のルーツ)
絹の考古学へのきっかけ
昨年京都市立大学の漆の研究者から古墳から発掘され
た棺の一部と思われる物の切片の顕微鏡拡大写真をメー
ルでいただきました。それは漆で絹と砂が45層に重なっ
た板状の物で、この絹はどの様な種類で、いつの時代の
物か判りませんか。という依頼でした。
蚕から吐糸された糸の断面が中央部に「お握り型」に見
える所が散見され、周辺に「変形三日月型」の所が混在
していて判断に困りました。切片を作るとき周辺が押し
つぶされたとも考えられましたが、変形型の方がやや多
いので、変形型の特徴がある日本の山野に生息する「天
蚕」ではないかと返信しました。後日、東京農大昆虫機
能開発研究室の先生にそれぞれの糸の断面積の計測など
をして頂いた所、「これは6世紀前半の中国の揚子江中
流で採られた家蚕の糸ではないだろうか」という所見が
ありました。私はこの事に感銘を受け、仕事の合間に絹
の考古学を紐解くようになりました。
絹の考古学に必要な基礎知識
官能検査1)目視—家蚕、野蚕の判断(絹の艶の差)、
糸撚り、織方、織密度、染色深度、
文様,経年変化
2)触覚—家蚕、野蚕の判断(繊度差)、繊度
偏差(古代〜現代繊度偏差減少)
科学的検査法3) 光学顕微鏡、走査電子顕微鏡、放射
性炭素測定
各種知識4)分類形態学、生態学、細胞学、遺伝子学、
育種学、生物地理学、
5)歴史学、人類学、民族学、民俗学
6)気象学(石器時代〜現代、世界の地域毎の
気温、海水位)
7)絹に関する漢字–意味を理解し日中古文書を読む
多用される漢字の意味
「絹」という字は今日の日本では絹の全てを指してい
ますが、古くは中国では勿論、日本でも絹の状態を表す
ために多くの字が使われていました。古事記、続日本記、
風土記、延喜式、養老律令、令義解など読むに当たって
随所に使われている絹を指している漢字の意味を解説し
てみましょう。
絹一般をさす字は「帛(はく)」という字が使われています。
その中でも少々質の劣るものを「糸曾(そう)」としています。
「絹」は平織りの中程度の織物を指し、平織り以外の物
は「綾」,「錦」等々、織りの形状によって沢山の字が使
われています。同じ平織りでも経(たて)緯(よこ)糸が細く織り密度が
高い(含、羽二重)高級品は「糸兼(けん)」。平織りで糸の太
い物を「糸施(せ)」といい、より太くて固い物を「糸巨(きょ)」、
太く甘撚りの物は「紬(ちゅう)」と書いています。
綿は緜((めん()上質)、絮(じょ)(低質)。
絹、シナ種の誕生
小氷河期が過ぎた1万年前頃には地球の温度が現在よ
り5℃位上昇し、動植物が活発繁茂しました。狩猟で生
活する石器時代、野外の昆虫は子供でも簡単に採取でき
る栄養豊富な大切な食料でした。桑の葉に付くクワコの
繭は鋭利な石器でも切る開く事はなかなか難しく、繭ご
と口に入れて噛むと口の中に残った糸が束なって口から
出て来ます。それが人と絹の出会いであったと思われま
す。これを飼い馴らし、昆虫の家畜化に成功したのです。
それが現在の中国の浙江省付近のクワコ(生殖細胞染色
体28)からはじまったといわれています(日本クワコは
同染色体27)。こうして年1回羽化する一化性の蚕「シ
ナ種」が誕生したのです。気温上昇で栄養豊富な桑の葉
も春から秋まで育ち、蚕が二化生に進化し、八千年前頃
には発祥地から亜熱帯まで南下した蚕は通年餌があるの
で、多化性(何回も羽化する)、三眠蚕(3回休眠)に進
化し、北上した蚕は気温も低く餌の葉の育つ期間も短い
ので、一化性から二化生(4眠蚕)に留まりました。
日本への伝来
第1ルート:中国東南部と南下した蚕—丸みのある糸
弥生前期—中国南部→東シナ海→北九州(養蚕技術50
0年滞留)。 一化性、二化成蚕
弥生中期—雲南→東シナ海→北九州→瀬戸内→畿内
〃 〃→八丈島→東海地方。二化性、多化成蚕
この時は現在雲南地方に住む非漢族の苗(みゃお)族が中国南東部
海岸線に居住しており、彼らが進化した二化生、多化性
蚕種と染織技術を持って直接日本に渡って来たと思われ
ます。八丈島に今でも苗族由来のカタッペ織りが存在し
ています。彼らが織る錦織は弥生後期卑弥呼の時代の倭
錦となり、魏の皇帝への献上品になったと思われます。
第2ルート:中国東南部を北上した蚕—扁平で細めの糸
弥生中期—楽浪(北部朝鮮)→日本海沿岸(北陸)
北上ルートの蚕種と染織技術を持って長期間
にわたり、幾度も大量移民。
絹の来た道 これからの道(その5)
絹の多角利用
絹は今日まで数千年に渡り高級な繊維として利用され
て来ました。ところが30年ほど前東京農工大学の平林教
授により、食べるシルクが発表されると、にわかにその
方面の研究が各研究機関で盛んになって来ました。
時を同じくする様に昆虫機能や蚕の遺伝子組み換研究が
脚光を浴びて来ました。
食べるシルク
その様な時代、絹織物の盛んな滋賀県長浜では屑糸等
の有効利用を模索していました。京都の加悦町では第3
セクターを立ち上げ、加水分解したシルクパウダの発売
を始めました。それはシルクを食べると体脂肪減、高血
糖値抑制、痴呆症予防等が期待されると云う夢の様な効
果を期待するものでした。その後酵素分解法などが開発
されましたが、シルクパウダの分子の連鎖の大小で上記
の効果が著しく異なる事が判明して、塩化カルシューム
溶解法などが開発され、メタボ対策用、高血糖値抑制用
など用途に応じたシルクパウダが作られる様になってき
ました。昨今では機能性食品として高血糖値抑制のため
の美味なサプリメント等が販売されています。
また宇宙飛行士用食品開発にも注目されています。
私は「ヤセヤセ缶ジュース」の様な手軽なシル入り食品
が一般化して来る事を期待しています。
無菌培養養蚕
蚕の人工飼料が開発され、年間何度でも工場で繭生産
出来る事業が、蚕新産業の要請を受け、軌道に乗って来
ました。飼料が高価なのでさらなる努力が必要です。
医療品開発
蚕は家畜化された18種類の必須アミノ酸を作る昆虫
で、生命のサイクルが30日弱と短いので、試薬実験動
物に多用されるようになりました。無菌培養された蚕か
らインターフェロン等が作られています。また無菌培養
シルクを使った化粧品は年々愛好者が増えています。
今やシルクは簡単にパウダやゲル、高野豆腐の様な固
形物にして保存し、何時でも目的に応じて利用出来ます。
シルクは医療素材に使用しても拒否反応がありません(
シルクアレルギーは稀に存在)。古くは手術の抜かない縫
合糸からはじまって、今日では骨や皮膚、血管まで作ら
れる様になり、法整備が進みコストが安くなれば、絹は
親和性が高いので長期リハビリの要らない医療資材が現
実の物になろうとしています。
蜂の巣もシルクですが、糸は採れませんのでゲル状の
爪ケアー用品が売り出されました。2020のオリンピック
に日本のバレーボール選手が使用する事になりました。
工業製品の開発
シルクはプラスチックやビニールシートの様にもなり
ます。脱プラスチック時代を受けて防腐効果の高い皿や
ストローが使用後には健康維持食材としても利用できる
様になるでしょう。野菜などにシルクを被せておくとし
おれが遅くなります。その様な事から鮮度維持容器など
にも利用される日が来るでしょう。
また内装材としても有効です。シルクの壁は人の気持
を和やかにしてくれます。昔から貴賓室などにシルクを
壁に使用するのはその為です。火災の時も強力な耐熱効
果を発揮し延焼を遅らせ、有毒ガスの発生も有りません。
蜘蛛の糸もシルクです。細くて、軽く張力ではシルク
よりはるかに優れています。大腸菌に作らせた蜘蛛の糸
製造が日本で成功し、世界の注目を浴びています。
紫外線が当たると数時間ではあるが強度を増し、刺激を
受けると強く収縮する(捕獲糸)繊維は他に例が有りま
せん。今後の研究が待たれます。
貝絹とは貝の紐や貝が岩にくっ付く成分です。この生
態研究で水中接着剤が開発されましたが、まだまだ沢山
の機能性が隠されていると思われます。
遺伝子組み換え蚕
遺伝子組み換え技術が急速な進歩を遂げ、蛍や珊瑚の
遺伝子を持った蚕が青白く光る糸やオレンジ色に光る糸
を作る事に成功し、一般飼育が始っていますが、カルタ
ヘナ法で蚕の糞や残食の処理が厳しく規制されていて、
確たる処理方法が確立していないので、今後の発展が危
惧されています。
昆虫機能開発
蚕の脱皮ホルモンやヨウジャクホルモンの調整でニ
ワトリの卵大の繭も、スズメの卵くらいの小さな繭も自
在に作る事も出来るようになりました。
ヤモリはなぜガラス板を垂直に登れるか。蝉の羽はど
うして汚れないか、なぜ玉虫の羽根の色は退色しないの
か、アブラムシの匂いセンサー等の研究に専念して未来
産業につなげようとしている研究者が増えています。
ヤママユガ科の繭の多孔質繊維の数々の未解明機能性
の研究は急務です。
絹の来た道 これからの道(その4)
日本の繭生産、養蚕技術世界一日本の繭生産、養蚕技術世界一
日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います
が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中
でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か
ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40万t、昭
和13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が
世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維
の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他
産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作
物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。
しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本
の養蚕技術は現在も世界一です。
その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は
アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通
して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と
いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の
国でも成功するとは限りません。
養蚕世界一への道程
日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと
いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮
半島から大勢の養蚕、機(はた)織、染色移民を招聘して絹産業
の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一
段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に
よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上
着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級
品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経
済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、
その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から
長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。
オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、
流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度
の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり
かねて一朱銀を求めるようになって行きました。
一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)
や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。
江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入
を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を
使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で
した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西
走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行
くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。
アヘン戦争と明治維新
江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全
域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ
パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応
じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花
やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、
東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦
争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう
に輸入できなくなってしまいました。
その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治
政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので
す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。
渋沢栄一と富岡製糸場
江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪
く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈
な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種
業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕
技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ
りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。
それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな
り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の
経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と
技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治
5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。
一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして
頂き、現在も続いています。
富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま
した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ
キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり
改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま
した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、
技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と
糸の品種の向上を計りました。
また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、
各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機
具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に
つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた
のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民
性が大きな要因ではなかったでしょうか。
日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います
が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中
でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か
ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40万t、昭
和13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が
世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維
の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他
産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作
物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。
しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本
の養蚕技術は現在も世界一です。
その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は
アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通
して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と
いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の
国でも成功するとは限りません。
養蚕世界一への道程
日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと
いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮
半島から大勢の養蚕、機(はた)織、染色移民を招聘して絹産業
の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一
段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に
よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上
着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級
品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経
済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、
その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から
長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。
オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、
流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度
の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり
かねて一朱銀を求めるようになって行きました。
一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)
や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。
江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入
を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を
使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で
した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西
走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行
くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。
アヘン戦争と明治維新
江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全
域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ
パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応
じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花
やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、
東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦
争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう
に輸入できなくなってしまいました。
その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治
政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので
す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。
渋沢栄一と富岡製糸場
江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪
く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈
な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種
業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕
技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ
りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。
それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな
り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の
経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と
技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治
5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。
一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして
頂き、現在も続いています。
富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま
した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ
キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり
改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま
した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、
技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と
糸の品種の向上を計りました。
また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、
各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機
具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に
つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた
のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民
性が大きな要因ではなかったでしょうか。
« Older Entries Newer Entries »