貝紫を染める
1997年、私共(インド染織研究会)は三河湾の一色漁
港の日曜日の競り台を借りて、地元で獲れるアカニシ貝
で「貝紫」を染める事を始めました。
貝紫の色は澄んだ赤みのある色で、精神ストレスに効果
があると言われ、古代西洋では「力が宿る」色と信じら
れていたようです。
佐久島の島興し
三河湾の佐久島が島興し(アカニシ貝等の漁獲物を獲
って付加価値をつけて売る)に貝紫染めをしようという
事になり、名古屋工業大学の先生と私(筆者)が島の人
達に染色の技法を伝えに行きました。当初はマスコミに
も取り上げられ、体験会場なども整備され、徐々に観光
スポットになって来ましが、観光客が増えて来ると来島
者から貝の匂いが臭いとクレームがつき、閉鎖のやむな
きに至りました。
日本で古代の貝紫染めをだれでも自由に安価に体験でき
る所が無くなってしまった事は残念です。
しかし私共は会場を変えてコロナ禍の2年を除いて、5
月の紫外線が強くなって来た時期に休まず実施して来ま
した。研修者の中には国際貝紫研究会で活躍する人も出
ています。
貝紫染めの今昔
貝紫は紀元前16世紀頃フェニキアで染められ始めた
フェニキア紫で、貝から獲れるその染料は極めて少量、
高価でアレキサンダー大王はじめローマの皇帝や貴族、
クレオパトラなどの権力者が独占的に使って来ました。
それゆえ帝王紫(ロイヤルパープル)、クレオパトラ紫
などとよばれて来て、その製法は極秘にされました。
しかし東ローマ帝国滅亡(15世紀)の頃になると世界
の桧舞台から消えて行きますが、染色法の開発も進み、
キリスト教と共に続けられて来ましたが、いつの間にか
パープルではなくスカーレットの赤になりました。
日本では弥生時代の吉野ケ里遺跡の発掘の中から絹麻織
物の絹の部分の色が貝紫染めと認定されて、貝紫研究ブ
ームが起こって来ました。
現在では南米メキシコのオアハカの海岸でインデオの男
性がプロポーズする結納品として荒海の危険な海岸の岩
場に付着している1枚貝(ヒメサラレイシ)を綛(かせ)糸に押
し付け紫に染め、彼女のもとに持参する風習が続けられ
ています。その調査実習が行われ、広く雑誌等で紹介さ
れ、国内外の研究と実務者の活発な活動が始まりました。
貝紫染めとは
温暖な海に生息するアクキガイ科の貝(肉食)のパー
プル腺液(二枚貝などを捕食する時、捕食する貝を麻痺
させる)を染材に塗りしませて、直射日光に当ててパー
プル腺液(臭素を含むジブロモインジゴ)がクリーム色
から紫色に変わる染色技法です。
この紫色は空気酸化と紫外線によって発色するので、日
光堅牢度はラックダイ(カイガラムシ)や紫根とは比較
にならないほど強靭です。
それ故、ローマに赴くクレオパトラの御座船の帆布の日
焼けを防ぐ為に貝紫で染め、ローマの貴族を驚嘆させた
という話は有名です。
日本の律令時代、高貴な色とされた貝紫を装束の官位の
色に使われることはありませんでした。それはあまりに
も膨大な労力が必要で、均一な染色が不可能であったか
らであろうと思われます。
しかし古くから伊勢の海人さんが自分達の潜衣や頭巾に
海難魔除けの印を描いて来ていました。
貝紫の染色法の発展
直接塗布
古来から行われている染色方法で、貝のパープル腺の
ある部分を割ってパープル腺の中に筆を入れ、その練乳
の様な液を筆や版木などで直接に糸や布に塗り染める。
またはパープル腺液を器に取り集め、よく撹拌し海水で
液の濃度を調整し、薄布等で不純物を濾した液に糸や布
を漬ける方法があります。
どちらも紫外線に当てて発色させますが、紫外線の弱い
曇りの日の発色は紫グレーの様な色になり、干すのは長
波光の多い夕方より短波長の多い朝の光の方がすっきり
した発色になり、色にも筆舌し難い迫力が出ます。
染液化した加工染料
近年開発された貝紫染め染料として発売されています。
炭酸カルシュームとハイドロサルハイト(還元剤)を使
い、熱を加えて染色する方法でムラなく均一に染まり、
今日の一般的な貝紫染になっています。
近年秋山眞和氏によって開発された、パープル腺液を
乾燥粉化し、いつでも染められるようにした還元建方法。
貝紫染めの難題の解決
貝紫染めは染色中もその後も染料の中に含まれる臭素
の為、染色後狭いところ保管しておくと少しずつ減臭し
ますが、臭いが気にならなくなるのに数年かかります。
染色直後に数日直射日光と風にさらすと臭いは消えます。