シルクロードが拓ける時代背景
シルクロードの命名
今日語られている「シルクロード」と云う呼び名は19
世紀後半ドイツのリヒトホーヘンが「ザイデン・シュト
ラーセン」と呼称し。その弟子で4回にわたって中央ア
ジアを探索し、桜蘭の遺跡などを発見したスエーデンの
ヘデインがその名を書物に書いて一般化してきました。
その他にも敦煌千仏洞の古写本を発見したイギリスのス
タインや日本の大谷探検隊などがシルクロードの夢をか
き立てました。
中央アジアの民族移動
中国の周の時代(紀元前8世紀頃)になると牧畜、農
業などが発達し、人口が増加して各邑が国となり互いに
覇を競い、紀元前6世紀には騎馬遊牧民で金属器文化を
持ったスキタイ、紀元前4世紀には陰山山脈方面に匈奴、
天山山脈方面に烏孫、タリム盆地周辺では月氏等が強大
になり始め、西方ではアレキサンダー大王の東方遠征が
あり、春秋戦国の時代を迎える事になりますが、多くの
民が戦乱を避け、各地に移動を余儀なくされました。日
本にも多くの人々が押し寄せ、縄文人を駆逐、同化しな
がら、農耕文化の弥生時代を招来した様に、漢族の膨張
のみならず、匈奴が月氏を西方に追いやった事で大きな
民族移動の波が起こってきました。月氏は中央アジアに
逃れ、「玉を東に絹を西に」に運ぶ交易を生業にする大月
氏となって行きます。
交易の必然性
戦いに勝って生き残る為には優れた新たな兵器を入手
する必要と相手を調略して攻め込まれない様にしなけれ
ばなりません。それは西方のヒッタイトが作った優れた
鉄(製鉄技術)と馬(汗血馬)が是非とも必要でした。
外交物資では絹織物、真綿、紙が特に有効で、屑真綿か
ら作られる絹紙(草木紙は漢代になってから発明、それ
以前は木簡綴り)は漢字が整備されて勅命や思想を正確
に通達する重様な戦略物資でした。真綿は兵の防寒と防
矢性に優れ、軽く運動性に富み、抗菌性など兵の健康維
持に役立ち、馬の負担を軽減し、鉄が攻めの武器なら絹
は守りの武器として極めて有効な物資でした。
西からは小麦、大豆、瓜、フエルト等、生活文化を支え
る重要な資源がもたらされ、シルクロードはこれらをよ
り安全に運ぶ道として拓かれる必然があったのです。
ルートの色々
一口にシルクロードと言っても編の目の様に色々なル
ートが出来、大きなオアシス都市で合流し、また分かれ
西方に到るのです。大別して順次4本の道が出来ました。
初めに南ルート—長安→敦煌→タクマラカン砂漠南側と
混論山脈の裾のホータンを通り→オアシス都市カシュガ
ル→サマルカンド→アレッポ→ローマの道が発達して来
たようです。
次に中央ルート—長安→敦煌→タクマラカン砂漠北側、
天山山脈の裾のトルファン→クチャを通りカシュガル→
サマルカンド。
北ルート—長安→敦煌→ビシュバクリから北はゴビ砂漠、
アルタイ山脈の北裾をぬけてタラス→サマルカンドに到
る道ですが、古から重なる民族移動でかなり踏み込まれ
て来た道でもあります。
海ルートは「海のシルクロード」と呼ばれ、陸路が乾き
や盗賊などの危険があまりに多いので漢の武帝は杭州→
広州→インドシナ半島→インド各地で交易を繰り返しエ
ジプトのアレキサンドリアに到る海路を拓きました。
張騫、法顕の西方探索
漢の武帝は広域な領土を支配する様になると兵の駐屯、
迅速な情報の伝達の必要性と文物の交流で大きな利益を
もたらすシルクロードをより安全で効率よいものに整備
する必要にせまられてきました。西域の事情を知るため
「張騫」を交易の民となった大月氏に派遣しました。
相次ぐ戦乱で民心は従来の儒教的道徳律では救われない
と新たに伝わって来た仏教に傾倒して行きますが、その
形骸は伝わって来たもののインドからの高僧は中央アジ
アの中継貿易で栄えるバーミアン周辺に留まり東の果て
にまで赴いてくれませんでした。5世紀の初め「仏法と
西方の事情」を調べるため、下級官吏の「法顕」が苦
難の道を辿り陸路でインドに到り、帰路は海路で帰朝し
「仏国記」を著し西方の事情を明らかにしました。
玄奘の仏法の道
4世紀末中央アジアの鳩摩羅什が仏典を漢訳し、6世
紀にはインドの達磨が中国に渡りましたが、7世紀初頭
になっても仏法の教義が脆弱であった為、三蔵法師が往
復陸路でインドまで赴き、教典を持ち帰り、「大唐西域記
」を著しました。その後「義浄」が往復海路でと渡印し
「南海寄帰内法伝」を書いています。
日本では遣唐使の「空海」などが大量の仏典などを持ち
帰り、8世紀のはじめに「鑑真」が戒律を伝えました。