絹の来た道 これからの道(その4)
日本の繭生産、養蚕技術世界一日本の繭生産、養蚕技術世界一
日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います
が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中
でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か
ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40万t、昭
和13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が
世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維
の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他
産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作
物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。
しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本
の養蚕技術は現在も世界一です。
その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は
アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通
して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と
いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の
国でも成功するとは限りません。
養蚕世界一への道程
日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと
いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮
半島から大勢の養蚕、機(はた)織、染色移民を招聘して絹産業
の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一
段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に
よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上
着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級
品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経
済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、
その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から
長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。
オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、
流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度
の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり
かねて一朱銀を求めるようになって行きました。
一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)
や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。
江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入
を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を
使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で
した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西
走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行
くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。
アヘン戦争と明治維新
江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全
域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ
パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応
じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花
やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、
東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦
争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう
に輸入できなくなってしまいました。
その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治
政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので
す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。
渋沢栄一と富岡製糸場
江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪
く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈
な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種
業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕
技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ
りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。
それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな
り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の
経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と
技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治
5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。
一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして
頂き、現在も続いています。
富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま
した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ
キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり
改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま
した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、
技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と
糸の品種の向上を計りました。
また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、
各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機
具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に
つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた
のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民
性が大きな要因ではなかったでしょうか。
日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います
が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中
でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か
ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40万t、昭
和13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が
世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維
の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他
産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作
物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。
しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本
の養蚕技術は現在も世界一です。
その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は
アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通
して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と
いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の
国でも成功するとは限りません。
養蚕世界一への道程
日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと
いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮
半島から大勢の養蚕、機(はた)織、染色移民を招聘して絹産業
の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一
段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に
よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上
着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級
品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経
済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、
その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から
長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。
オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、
流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度
の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり
かねて一朱銀を求めるようになって行きました。
一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)
や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。
江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入
を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を
使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で
した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西
走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行
くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。
アヘン戦争と明治維新
江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全
域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ
パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応
じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花
やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、
東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦
争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう
に輸入できなくなってしまいました。
その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治
政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので
す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。
渋沢栄一と富岡製糸場
江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪
く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈
な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種
業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕
技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ
りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。
それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな
り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の
経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と
技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治
5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。
一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして
頂き、現在も続いています。
富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま
した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ
キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり
改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま
した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、
技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と
糸の品種の向上を計りました。
また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、
各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機
具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に
つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた
のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民
性が大きな要因ではなかったでしょうか。