犬頭神社
犬頭(けんとう)神社に参拝
予てより三河の豊川の千両( ちぎり)の犬頭神社に参拝したく思
っていましたが、三河湾の佐久島で貝紫染めの体験会の
帰路立ち寄る機会を得ました。
訪ねた時は鳥居を超えた所に一抱え以上もあろうかとい
うご神木の桑の木に実が沢山なっていました。
本殿の脇に大きな桑の木の切り株があり、脇から細い梶
の木が葉を広げていました。絹の紙から植物(梶—クワ
科のコウゾ族、ご神木の使われた)の紙への移行を示唆
している様でした。
犬頭神社縁起
犬頭神社は律令国家が始動し始めた大化の改新の頃の
西暦640に創建されたと伝えられています。
創建当時の社名は判りませんが、保食神(うけもちのかみ)(農業など食物
を司る、注1)と糸繰姫神を祀って来た様で、古くから
農業が振興した地域と推測されます。
平安時代に成立した延喜式(927年)や今昔物語りには
「犬頭」という社名についての記述があります。
今昔物語によれば、三河の国の郡司(国司のもとの地
方官)の本妻の蚕がみな死んでしまって家は貧しくなり、
郡司は繭をよく育てている第二妻の所に入り浸り、本妻
のもとに帰ろうとしませんでした。本妻は桑の葉に一頭
だけ残った蚕を育てようとしましたが、飼っていた犬が
蚕を食べてしまい、その犬をどうしたものかと思案して
いると、くしゃみをした犬の鼻の穴から2本の糸が450
両(3000㎏)も出てきて、糸が出尽きると犬も倒れて死
んでしまいました。本妻は犬を桑の木の根元に埋葬した
ところ、その桑の木に沢山の蚕がついて素晴らしい白い
繭が採れました。しかし本妻はそれを練ってしなやかな
細い糸にする方法が分からなく、思いあぐねている所に、
第二妻のもとから帰ってきた郡司は、第二妻の家ではグ
レイがかった糸しか採れなかったのに、白い繭を見て驚
き、本妻のもとに帰り、艶やかな白い生糸を仕上げて、
家は豊かになりました。郡司はこの話を国司に伝えたと
ころ朝廷に報告され、「犬頭」という糸の名前で「調」
として朝廷(蔵人所)に収められ、天皇の衣装も織られ
る様になったという物語です。
「ちぎり」と呼ばれるこの地域はこの繭のおかげで豊か
になりましたので「千両」と記され今日に至っています。
その後、この糸は「犬頭糸」「犬頭白糸」と言われるブ
ランド糸となり、神社は「犬頭神社」と称されるように
なりました。
令義解(律令の解説書:833年)によれば三河の新城
で採れる犬頭糸が「赤(あか)の糸」(注2)と称して伊勢神宮
に奉納され、今日でも愛知県の新城から伊良湖岬に至る
各神社で「御衣(おんぞ)祭」をして奉納が続けられています(注
3)。
しかし神服部神社御由緒によれば御衣を織る「赤の糸」
とは「三河大野ヨリ調進スル赤引キノ糸〜〜青ク光ル
〜〜」とありますので、「赤の糸」は白い糸が採れる家
蚕の蚕種が中国(朝鮮)から伝わる以前のクヌギやブナ
等を食性にする天蚕のうす緑の艶やかな糸ではなかった
でしょうか。
延喜式
延喜式は905〜927にわたって書かれた養老律令施行
細則(50巻)で、その中の9、10巻の神明帳に全国の
神社が国、郡ごとに式内社(官幣、国幣に預かる神社)
として3132座、2861社記されたていますが、犬頭神
社の記載は無く、別巻に記されているのではないでし
ょうか。
犬頭神社の鳥居の前に立つ大きな石柱に「郷社」と刻ま
れていましたので式内社でない事は確かです。それが近
年モルタルで埋められて石柱の横に「昇格」と彫られて
いました。
犬頭神社の故事は日本の絹産業のあけぼのを物語る
今昔物語の記述は養蚕の事をよく知らない人が書いた
と思われる記述ですが、それでも当時の養蚕技術の進捗
期の実情がにじみ出ています。
この当時は既に家の中で養蚕をしていたと思われますが、
桑の木の葉にいた一頭の蚕が犬にたべられた云々は野外
のクワコを指していると思われます。野外では幼虫時は
鳥、吐糸直前には猿などが好んで食べ、時として病気も
発生します。また人の生活も昆虫食が盛んで、子供達等
が繭を噛んで蛹の汁を吸い、口の中に残った糸を口から
出して紬糸を作る足しにしていたと思われ(注4)、神
社縁起(保食神—口から食べ物を吐き出す。糸繰姫神—
紬糸)から推察すると繭を食べたのは犬ではなく、獣害
か病害でわずかに残った繭を人が食べてしまったと考え
られます。
この絹糸の作り方は、日本書紀に登場する「海彦山彦」
の物語(大和族と隼人族の戦い)の山彦(神武天皇の祖
父)がワタツミ(海神、綿津見)の国(当時揚子江の河
口周辺)に失った釣り針を探し求めに赴いたとき(注5)、
そこに居住していた苗(みゃお)族(鉄器の秦の軍隊に青銅器の苗
が敗れ、現在はタイ北部方面に居住)から伝えられた絹
の紬の文化と思われます(東伝の絹、注6)。
犬の鼻から2本の糸がとめどもなく出てきたという記述
は中国(朝鮮半島)から朝廷経由か直接能登半島経由で
白く大きな量産型の蚕種と繭から生糸を揚げる技術が伝
えられた事を物語っているのではないでしょうか。
そして郡司は渡来技術者集団(育桑、養蚕、製糸、精錬、
染色、織布などの職人)から製糸や精錬技術を習得して、
白いしなやかな糸を作ったのでしょう。この糸が都に運
ばれ錦や綾、羅が織られる様になり、この集団が周辺各
地に広がり、天蚕糸を伊勢神宮に奉納していた先住の人
達の利権を奪っていったものと推測されます。
奥三河から南信地方にかけて、今日でも昆虫食が盛んで、
目鼻立の整った唐沢性の人が多いのはその様な歴史に由
来しているのでしょうか。
注1)保食神(うけもちのかみ)—保食神は天照大神の高天原から遣わされた
月夜見尊(つくよみのみこと)を接待するために色々な食べ物を口から吐き
出して接待したところが、月夜見尊は汚いと言って保
食神を斬殺。その後天照大神は太陽、保食神は月とな
り、暦による農業の始まりを示唆。
注2)赤(あか)の糸—古代、三河大野の赤日子神社のある「赤孫」
(あかまご)で産する青く光る糸(天蚕紬糸?)。
現在は家蚕の白い糸でも伊勢神宮に奉納する時は「赤
の糸」と称している。
注3)絹の話(41) 絹と伊勢神宮:今泉雅勝著
律令時代の「御衣」は宮中から遠江浜名湖岡本に位田
を賜り、神御衣妖化守護(従五位の下)に任ぜられた
神服織(服部)氏(帰化人?)が当初は古から地元で
採られていた赤の糸(天蚕紬糸)で織っていたが、彼
等がもたらした犬頭白糸へ移行させたのではないだろ
うか。
注4)2010年頃、豊橋の百貨店で繭を見た年配女性が、子供
の頃、生繭をお八つに親からもらい、繭を噛んで口に
残った糸を口から引き出し、親に渡したと言っていま
した。同類の話は埼玉の川越、京都でも経験者から聞
いています。
注5)日本語大漂流:茂在虎男著
注6)絹の東伝:布目順郎著