絹の考古学入門(その4)
殉死とは
王や后妃、諸侯、諸侯婦人などの権力者が亡くなった
とき、寵臣や側近、寵妾(ちょうしょう)、愛婢(あいひ)、多くの奴婢達が王の
墳墓の陪葬坑(ばいそうこう)に自主的又は命令で葬られる事を言うので
す。が、王が亡くなってから幾多の儀式などを経て壮大
な墳墓に葬られる迄に長い時間がかかると思われます。
寵臣達はそれら諸般を一切すませて自ら陪葬坑に横たわ
るのか、他所で静かに自害して葬ってもらうのか歴史は
語ってくれません。殉死を命じられた側近の兵や員数合
わせの奴婢奴隷達の気持ちはいかばかりか心が痛みます。
殉死の風習が起こって来たのは中国の東周の時代以降
の春秋戦国の時代から秦に至るまでの紀元前700〜約7
00年間のようです。日本でも規模や形式は違っても、明
治の時代になっても殉死と云う風習は残っていました。
時代背景
中国山東省の東周期とは青銅器から鉄器に移り変って
行き、鉄と云う新しい文化に触発され、諸国の王が覇を
競う戦国時代への移行期でありました。
南から伝わって来た絹の生産が北東中国でも盛んになっ
て来た時代で、絹はまだまだ未精練や無撚糸の紬の様な
素朴な織物が主であったと思われます。この時期、絹の
製糸技術(特に撚りをかけた細い糸がつくられ始める)
が急速に発展しはじめ、絹は権力者にとって自ら装って
権力を誇示する絶好の品であるばかりか、周辺諸王との
外交の重要品目として重視され始め、家臣に下賜する効
果的品でもありました。後世絹は臣下への給与の一部に
なって行くのです。
出土品から推測
当時の出土品に、銅壺に鋳出された「躬桑礼(きゅうそうれい)」の図柄
の物があります。それはその年最初の春(はる)蚕(こ)を飼いはじめ
る為の桑摘み儀式の図柄で、后妃、諸侯婦人も蚕母(宮
中で養蚕に携わる女性)や蚕婦(諸侯の元で養蚕〜織布
に携わる女性)達と一緒に桑摘みをしている様子を現わ
しものです。これは宮廷や諸侯の間で養蚕が盛んに行な
われていた事を物語っています。
そんな時代の古墳から蚕形玉髄(ぎょくずい)が発掘されました。
これは蚕母、蚕婦達の養蚕、製糸、織布技術が向上する
ように権力者が高価な翡翠で作らせた蚕型の装飾品で、
常に腰から両方の太もも付近に紐で向かい合わせの対で
吊下げていたと思われます。
彼女達は常にこれを履き、国の盛衰を賭けて細い糸作り
と薄くてよりしなやかな織物を作る事を求められていた
のでしょう。艶々して、薄く、しなやかな絹織物は、国
威示す象徴的な物になって来ていたのです。
蚕母、蚕婦の殉死
王、が亡くなると、ここで働いていた大勢の中から15
才〜30才くらいの若い女性の幾人かが、命により蚕形玉
髄(玉蚕)を佩き、王の墳墓の陪葬坑に葬られたのです。
いずれの玉蚕も出土部位の骨格の腿(もも)から足の傍で発見さ
れています。王の墓からは絹織物、絹糸束、錦など残り
にくい絹製品が沢山出土していますが、残念ながら陪葬
坑には骨と玉蚕しか残されていません、坑の作り方によ
って絹は早く分解して残りにくいので、彼女達の装束は
どのようであったか分かりません。何も衣類の痕跡が残
っていないとしたら、絹を着せてもらってあの世に赴い
たと思われます。彼女達はどんな風に葬送されたのでし
ょう、哀しむべき事と云う他はありません。
殉死の背景考察
この墳墓は紀元前400年頃のものではないかと推測さ
ます。これから後、絹の利用範囲は寒さを防ぐばかりで
なく鉄の武器(鏃(やじり)など)ら身を守る事が出来る有効な
機能が認識されはじめ、諸王は競って絹の増産に励むよ
うになりました。特に北東中国では北方異民族が西進、
南下を繰り返すようになり、その防備に異民族に負けな
い強い大兵団を組織する必要に迫られていました。増産
される絮(じょ)(絹綿)を兵に支給し防寒防弾着をつくらせた
のです。絮衣は軽く、兵の戦闘能力を増大させたばかり
か、馬への負担を減らし、絹の抗菌性等の機能性により
外傷ケアに効果があり、皮膚疾患の予防にもなって『絹
は力』となってゆくのです。
村役人は各戸を回って養蚕を薦め、緜(めん)(高級な真綿)
絮(低級な真綿)と織物を厳しく取り立てる様になりま
した。こうして絹は鉄と共に国を富ませ強くする、表裏
一体の新しい産業として歴史に登場して来るのです。
富国強兵
日本でも大化の改新後の7世紀中頃、朝鮮の白村江の
戦いに出兵した兵士に緜甲(真綿を固く加工したもの)
と絮衣を着せたといわれています。
昭和の初期には絹が日本の輸出総額の45%前後となり、
富国強兵の国策を支えたのでした。