絹の来た道 これからの道(その3)
絹の軍事利用
古代から絹(生糸)は美しい織物として権力者によ
って多用されて来ました。
ところが、長繊維である生糸は繭の20%~30%しか採れ
ず、残りは屑糸となり、紬として庶民にも利用されて
来ました。紬は蝉の羽根の様に薄く艶やかで、霧の様
に柔らかくとはなりませんが、軽くて丈夫で温かく、
夏でも蒸れず、寒冷にも凍結しにくく、緩衝性にも吸
臭性にも優れていて、気持ちを和らげます。
その様な素材を権力者が見過ごす訳が有りません。
緜衣(めんい) 緜甲冑(めんかっちゅう)
中国の殷、周の時代になると大陸の中で派遣争いが大
規模になり、青銅製の兵器等の金属兵器から兵士を守る
為、大量に生産され始めた繭から得られる絮(じょ)(真綿)や
屑繭から兵士の外装や兜を手軽に大量に生産し、軍事に
利用され始めたのです。鉄兵器の時代になっても清の時
代に至るまで利用されて来ました。
漢時代の墳墓の兵馬俑の服装をお思い出して頂ければ解
りやすいですが、唐の時代には紙絮(絹の屑を紙に漉い
た物)、明の時代でも綿甲(繭を濡らして木鎚(きづち)で紙のよう
に薄くした物をタイル貼りの様にベースの生地に鋲で打
った物)が盛んに使われていました。
清の時代になると、緜衣に菱形の鉄甲板を鋲でとめた武
官鎧が作られていたという記録が有ります。
ローマ帝国の兵士もシルクロードからもたらされた緜衣(めんい)
を着て戦ったところ、敵の矢を防いだという話が残され
ています。
蒙古軍「 絹と羊毛のフエルトで世界制覇」
蒙古では羊毛は沢山とれますが絹は生産されません。
絹の機能性を知ったチンギスハーンは万里の長城を超えて
中国に侵入すると「先ず銀を奪うべし、次に絹を奪うべし」
と命じ、奪った絹を羊毛と混ぜたフエルトを作らせます。
(羊毛と真綿を大きな恵方巻き(のり巻き寿司)のように
簀巻(すまき)きして水をかけて馬で平原を長時間曳き回して作る)
これは強力な防矢性を発揮するばかりでなく、軽く軽快で
戦闘性が向上し、野営する兵士には防寒に役立つばかりか
絹の抗菌性による皮膚病等の予防になり、馬の疲労も和ら
げ、行動距離が増し、兵士の士気はグンと向上したのです。
特に黄河より南は羊毛フエルトの軍装では夏期の駐屯は暑
くて不可能でしたが、絹羊フエルトの軍装は温度が上がり
過ぎず南下を可能にして、タイ国境にまで進出し、東ヨー
ロッパにまで制覇する事が出来たのです。
鎌倉時代日本に襲来した時の蒙古兵は絹羊フエルトワンピ
ースとブーツ、先頭兵士は金属兜ですが、後方兵士は緜甲
冑でした。この時の戦闘の様子を記した当時の記録に「蒙
古兵は射れども射れず、斬れども斬れず」とあります。
蒙古の元は絹を利用してアジア大陸を制覇したと考えても
よいでしょう。
日本の絹生産 「刀と戦争」
日本では7世紀白村江に出陣する兵士に緜甲冑を付けさ
せた記録が有ります。
鎌倉時代、元弘の役の苦戦に懲りて、絹が斬れる刀を作
らなければ蒙古兵には立ち向かえないと考えた時の政権は
絹が切れる日本刀を作ることに心血を注ぎ、軟鉄に玉鋼を
巻き鍛えて、反りの研究を重ね、五郎正宗をして、日本刀
を完成させるのです。
戦国の武将は、刀傷を少しでも防ぐ為と、鎧の中の熱や
汗、臭いを和らげる為に、平面繭(蚕に繭を作らせず、平
な広い所に蚕を置いて和紙の様な絹を作らせる)を着用した
と云われています。
日本が絹生産世界一の時代
昭和10年台になると、絹は輸出総額の45%前後になり、
このお金で軍備を拡充し、第2次世界大戦をアメリカ、イ
ギリス等連合国と戦争をすることになったのです。
その時、日本の航空兵は暖房のない機内で身体を冷やさ
ないため絹のマフラーを首にしっかり巻き付けて搭乗し
ていました。落下傘もさらりと開かせるため絹で作られ
ました。北支派遣軍の冬の軍装に軽くて暖かく、緩衝性
に優れたエリ蚕が使われました。
これからの絹の軍事利用
昨今世界中で軍事用に研究されている絹は「蜘蛛の糸」
です。蜘蛛の糸は蚕の絹より優れた機能性が多く、特に
張力は蚕の糸よりはるかに勝っています。
現在は軍事用防弾チョッキ製造が期待されていて、集団
で飼育出来ない蜘蛛に代わって、蜘蛛の糸の遺伝子に組
み替えられた家蚕に蜘蛛の糸を量産させようとしていま
す。また、大腸菌に蜘蛛の糸と同じ物を作らせる事に成
功したようです。
絹は今後もっと多方面に利用されて来ると思われます。