絹の来た道 これからの道(その2)
絹の製法秘密厳守
中国で絹が作られてより、歴代の古代王朝はその製法
が流布する事を禁じてきたようです。
先ず蚕種の流失を厳しく取締り、次いで製糸技術も制限
したようです。
特に薄衣をしなやかに纏う事は権力者の象徴であり、富
裕の証で有りました。
絹布は権力者から臣下に褒美、他国、他民族との外交品、
上司から臣下に、臣下から上司に祝儀として盛んに使わ
れていました。
絹を差配する事は権力者の大きな財源でもありました。
今日でも使われている「羽振りが良い」とは、薄衣を靡
かせて歩く姿を言ったものです。
絹の製法の伝播
中国の漢の時代になると、シルクロードが整備され、
ローマや西方の国々との交易が盛んになって、絹の需要
は高まるばかりでしたので、中央アジアからローマに至
る国々では蚕種をなんとか入手し、自国で絹を作ろうと、
時の中国の王朝に対してあれこれ画策するのですが、な
かなか実現しませんでした。あるとき中央アジアの国の
王子が中国王朝の姫と婚姻する事になり、中国からはる
ばる輿入れするとき髪飾りの中に蚕種を入れて来るよう
に頼んだ、と云う話があるほどでした。
現在のアフガニスタン周辺の国々はシルクロードの中継
貿易で栄え、そこを通ってシルクが運ばれて来るので、
ローマの人々はシルクが中国ではなく中央アジアの何処
かで作られていると信じていました。またローマの人々
はシルクが何から作られているか知りませんでした。
やっとヨーロッパの入り口のトルコ(現在)に伝わる
のが6世紀というのですから、絹が作られてより三千数
百年、シルクローロが拓けてから千年弱シルクの製法の
秘密を守ってきた歴代中国王朝の手腕に驚くばかりです。
東方の日本にはどうでしたでしょうか。
日本には日本在来種の中国とは違った「クワコ」がいま
したので、これを利用して絹の紬を作っていたのかも知
れませんが、養蚕技術は稲作と一緒に伝わったというの
が定説です。稲作、即ち縄文後期なので、今から三千数
百年前には中国から家畜化された蚕種が伝えられたと思
われます。そうすると中国の歴代王朝は極東の日本を含
めて自国の範疇と考えていたのでしょうか。
後世、卑弥呼が魏の国に朝貢した時、献上した絹布は素
朴なものであった様で、紬ではなかったでしょうか。
魏の王からは当時の日本では見た事もない目映いばかり
の錦織三反、平織り絹布百反を賜ったと魏志倭人伝に記
されています。その当時まで日本には錦織は勿論、羽振
りをきかす様な絹織物を作る技術は伝わっていなかった
と考えられますが、それを必要とする権力が存在してい
なかったと言った方がよいかも知れません。
養蚕技術
生糸で絹布を得るには、繭の糸口を見つけて、3粒〜
10粒を合わせて揚げ、精練、撚糸して織物を作るのです
が、紬糸を作る作業に比べて、大変精密な技術が要りま
す。中国の漢の時代以前には既に蝉の羽のように薄く、
霧のように柔らかい絹織物が出来ていたのですが、4世
紀の倭の国にはそこまでの技術が無かったと思われます。
日本が絹織物の技術を本格的に導入し始めたのは大和
朝廷が確立する頃からで、その当時中国や朝鮮から大勢
の職人集団が幾度も渡来して絹産業を興隆させて行くの
です。その職人集団は大和周辺で技術を伝え、それが一
段落すると、彼らに官位など付与して日本各地に移封し、
その技術を各地に広めたのです。
三河の国にも彼らの移封があり、上質な繭を産する国と
して名声を高めてゆくのです。
絹の着用
三国志や韓国、日本の時代劇映画を見ると、支配階級
の人々はいずれも艶のあるしなやかな衣装を着ています。
楊貴妃にしても高松塚古墳の壁画に描かれている女性達
はみな薄衣を纏っています。
日本では各地で繭の生産が増し、絹加工技術移が一段落
した大化の改新の時、貴族等官位ある人々の公式時には
色で官位の区別をした絹の着用を義務づけました。
また当時宮中の祝事等のとき、祝儀の品として絹織物が
盛んに諸臣に配られたといわれています。
現在のテレビ等で見る韓国の時代劇は位階による着用色
がはっきり区別されていて参考になります。
但し、主に生糸をとった残りなどで作られる紬は、生糸
に比べて艶がなく、しなやかさにも欠けますので庶民に
も着用が許されていしました。
この事は江戸時代まで続きますので、絹は庶民には身近
で遠い存在になって行くのです。